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 有名な古代の王たちの人生は退屈とはほど遠かったようだ。そこにはあまりにもドラマチックなエピソードがある。

 私たちが古代の偉人のことを覚えているのは、その伝説的な偉業のせいだろう。アレクサンダー大王はペルシャを征服し、ユリウス・カエサルルビコン川を渡り、女王ブーディカは女性の身でありながら侵略者と勇敢に戦った。

 だが、そんな彼らほどは名の知られていない同時代の支配者たちにも、語るべき話はある。彼らの物語は力強く、説得力があるにもかかわらず、現代ではそのほとんどは忘れ去られてしまっている。

 あまりにドラマチックすぎて、歴史書には出てこない、古代の王たちの隠されたエピソードを紹介しよう。 

【画像】 1. ヒッタイトの大王、ムルシリ1世

 ハットゥシャは古代ヒッタイト王国の首都で、その遺跡は現在のトルコにある。ハットゥシャからバビロンまでの道のりは、現在ではかなりの紛争地域になってしまっていて、トヨタ車を走らせても20時間ほどかかる。

 ヒッタイトの大王、ムルシリ1世(紀元前1620~紀元前1590年※諸説あり)の時代、およそ1690kmの行軍はさぞかしもっと時間がかかったことだろう。途中でアレッポの征服に足を留めされたりもしている。

 ムルシリ1世のバビロンの征服は、かなりの離れ業といってよかった。有名なハンムラビの子孫を撃ち破り、バビロンの人々の間にムルシリの遺産を浸透させようとした。

 だが残念ながら、ムルシリにとってこれは実りある征服というわけにはいかなかった。バビロンは、ヒッタイトが実際に統治するにはあまりに遠すぎた。

・合わせて読みたい→旧約聖書に記された古代イスラエル王国の年代に関する新しい証拠が発見される。その成立は紀元前11~10世紀。

 征服劇の鮮やかさをもってしても、国内でのムルシリ支持が圧倒的に高まるにはあまり役立たなかった。

 その代わり、ムルシリが宮殿に戻ったとき、この襲撃は残虐行為だと非難され、それが義弟のクーデターにつながり、暗殺によってムルシリの統治は突然終わりを告げた。

 この事件について、ヒッタイト人はずっと恥ずかしく思っていて、自国の歴史書にはこのことについてはほとんど出てこない。

2. 殷の武乙(紀元前1147~紀元前1114年)

 長い中国史の中で、最初に登場する王朝は夏(か)だ。実在したのかもしれないが、神話上の王朝だった可能性もあり、その歴史はよくわからない

 だが2番目の殷王朝は、その華やかな皇帝とともに確かに存在した。王の武乙(ぶいつ)は紀元前1147年から1114年まで統治していて、国を神権政治から君主制政治体制へと移行させようとした。

 残念ながら、それを達成するための武乙のやり方は少し狂気じみているとみなされた。嘘のゲームをでっちあげてそれに勝つことで、天霊よりも自分の力のほうが勝っていることを示そうとしたのだ。

 もっとも悪名高かったのは、血が入った革袋を高く掲げ、冒涜的なやり方で袋に向かって矢を放ったことだ。

[もっと知りたい!→]ハプスブルク家の呪い。17世紀の王家に見られる独特な顎は近親交配の影響が大きいと科学者(スペイン研究)

 記録によると、このとき武乙は天を撃つと叫んだとされる。どうやらこれが天の怒りをかったのかもしれない。

 武乙はこの後しばらくして、狩りの途中で雷鳴を極度に怯えて亡くなったという。文字通り〝打ちのめされた〟武乙は、悪名と共に現代でも生き続けている。

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武乙は天よりも自分のほうが力があると言い放ったと伝えられている / image credit:Wikimedia Commons // Public Domain

3. アッシリアのサルゴン2世(紀元前721~紀元前705年)

 アッシリアの基準からしたら、サルゴン2世はまさに大成功をおさめた王だった。ペリシテ人や新ヒッタイト人などの外国の土地に侵略して金銀を大量に略奪し、さらにはバビロンの王座もせしめた。

 しかしサルゴン2世の死後、こうした彼の栄光はほぼ消し去られた。息子のセンナケリブは父親の名前を決して口にしようとはせず、アッシリアの人々に古い王のことは忘れるようけしかけた。

 こうした抹消行為は非常に効果的で、何世紀にもわたって歴史家たちは、サルゴン2世の存在は神話、せいぜい聖書の誤りだと考えてきた。

 歴史家たちがこの王の重要性を再評価し始めたのは、19世紀後半にドゥル・シャルキンでサルゴン2世の宮殿跡が発見されてからのことだった。

 サルゴン2世が愛してやまなかった息子センナケリブは、なぜ父王の名前を抹消しようとしたのだろうか?

 サルゴン2世は戦闘で亡くなり、王室として埋葬されなかった唯一のアッシリア君主だった。王の遺体は敵によって失われ、正しく埋葬されなかったため、その魂は呪われていると考えられた。

 アッシリア人たちは、老王がここまで神にすっかり見捨てられたのは、なにかとてつもなく冒涜的な罪を犯したからではないかと考えるようになった。

 センナケリブは、父王の不運な死にひどく動揺し、宮殿をニネヴェに移し、二度と父の名を口にすることはなかった。

 サルゴン2世の死は、歴史書からしばらく抹消されるほど劇的なもので、かつては傑出した偉大な王にとって非業の運命だったといえる。

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4. リディアのギュゲス(紀元前680~紀元前652年)

 リディアの地はパクトロス川から自然に流れ落ちてくる金鉱床に恵まれ、非常に豊かだったという。

 今日でも豊かさを表すのに〝クロイソスのように金持ち〟という言葉が使われる。このクロイソスとはリディアの最後の王のことを指す。

 ヘロドトスによれば、クロイソスはヘラクレス王朝を打倒したリディア王ギュゲスの曾孫だという。ギュゲスがどのようにして権力を握るようになったのかは謎のままで、その答えはヘラクレス自身の伝説以上に空想的な要素が強い。

 ギュゲスの物語はプラトンの書物に見つかる。ギュゲスが羊飼いとして山中をさまよっているとき、金の指輪を見つけ、その指輪をはめると、なんと、彼の姿が見えなくなった。

 「指輪物語」にもありそうなファンタジーな展開だが、ギュゲスはその不思議な指輪の力を使って、女王を誘惑し、夫である王を殺して王座を奪ったのだという。

 王としてのギュゲスは、その軍事的武勇と富の巧みな活用の仕方で有名だった。デルポイの神託に惜しみない捧げ物をした結果、ギュゲスにとって都合のいい預言を得ることができ、標的にしたギリシャの町をギリシャ同盟軍が解放するのをくじき、そのおかげで征服が容易になった。

 ギュゲスからクロイソスまで、リディア人は黄金を上手く利用する方法を確かによく知っていたということだ。

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伝説によると、リディアのギュゲスは文字通り〝失踪〟したという / image credit:public domain/wikimedia

5. マケドニア王国アルケラオス1世(紀元前413~紀元前399年)

 マケドニアアレクサンダー大王は間違いなくもっとも有名な王だが、ドラマチックという点では、大王の先祖であるアルケラオス1世はさらに勝っていたかもしれない。

 アルケラオスは父親と奴隷女との間の私生児で、本来なら王になれるような身分ではなかった。

 だが、おじ、いとこ、きょうだいといった事実上の王位継承者を殺した結果、道が開けたことになった。

 このような不吉なスタートにもかかわらず、アルケラオスは名高い王になった。彼の宮殿には偉大な劇作家のエウリピデスなど、ギリシャ世界各地から芸術家たちが集まった。

 エウリピデスは、このときすでにかなり高齢だったが、世の中の楽しみを求める貪欲さはまだ残っていた。

 彼は若い廷臣に無理やり言い寄ったが、廷臣はエウリピデスの口臭がひどいという噂を広めて報復した。このため、アルケラオスはエウリピデスに、この若者の無礼を理由に鞭打つことを許可した。

 この場合、アルケラオス王の演劇嗜好は明らかに正義感よりもはるかに上回っていた。だがこの一件で、王は代償を払うことになった。

 この若い廷臣はふたりの友人たちと謀って、アルケラオスを狩りに連れ出すと殺してしまったのだ。宮廷ドラマに憧れる者は、こうした運命に注目すべきかもしれない。

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ドラクマ貨幣に刻印されたアルケラオス1世像 / image credit:public domain/wikimedia

6. キュレネの王、デメトリオス(紀元前249~紀元前245年)

 デメトリオスはもともとはマケドニア出身で、紀元前249年、現在のリビアにあったギリシャ植民地、キュレネの王になった。

 デメトリオスの王としての地位は王女との結婚で築かれた。彼の妻ベレニケはキュレネの王女として生まれ、かつては従兄弟エジプトプトレマイオスと婚約していた。これはふたつの帝国の同盟を意味する政略結婚だったが、この同盟に反対していたベレニケの母親アパメ女王が、ベレニケの父親が死んだ際、ベレニケとデメトリオスを結婚させたのだ。

 実はアパメ女王は、娘のことより類まれな美貌をもつデメトリオスとのつきあいを楽しんでいたようで、この結婚をアレンジするのには隠された思惑があった可能性がある。

 結局、ベレニケは母親のベッドにいた夫デメトリオスを殺した。若くして殺されたデメトリオスの唯一の救いは、自慢の美貌が衰える前に生涯を終えたことぐらいだが、ベレニケはかつての婚約者プトレマイオスと晴れて結婚できることになった。

 デメトリオスにとってせめての慰めは、ベレニケは結局、自分の息子の手にかかって死んだため、このふたりは似たような人生の結末を共有したということだ。

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デメトリオス1世の大理石の胸像 / image credit:public domain/wikimedia

7. 秦の胡亥(紀元前230~紀元前207年)

 有名な専制君主で、兵馬俑を造った秦の始皇帝のことは誰でも聞いたことがあるだろうが、その後継者である胡亥(こがい)についてはほとんど耳にしたことはないだろう。

 始皇帝が亡くなったとき、家臣たちは皇帝の長男に自分たちが退けられるのではないかと恐れた。そこで大臣の李秀と趙高は、別の候補者つまり始皇帝の末っ子である胡亥を擁立した。

 胡亥は簡単に操られ、残酷で弱い男だった。国民にとっては理想的とは言いがたいとしても、大臣が頼みの綱とするすべてだったのだ。

 胡亥は、父親の遺言を偽装したり、長兄がを服毒自殺するよう仕向けて排除したとされている。それから本来の仕事にとりかかり、胡亥皇帝として、王位を脅かすすべての脅威を排除した。

 男の兄弟たちを公開処刑したり、無理やり毒を飲ませたり、妹たちも彼の命令によって悲惨極まりない死をとげたという。

 しかし、そこまでして胡亥が手に入れた帝国は急速に衰退していった。結局、彼が国を統治したのはわずか3年で、最後は自らも毒を飲まざるをえない状況になり、秦王朝はそのすぐ後に崩壊した。

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8. ヌミディアのユグルタ(紀元前118~紀元前104年)

 現代では、ヌミディアのユグルタ王は、最後のパンを盗み、それを2倍の値段で売りつけるような人物だったと言われている。

 ヌミディアという国は、ローマ共和国時代の北アフリカにおけるローマ同盟国で、ユグルタはヌミディア王子の私生児だった。だが、戦闘において優れた才気を見せたため、国民から人気があり、王国の3分の1を与えられた。

 だが、ユグルタはこれで満足しなかった。自分のきょうだいのひとりを殺し、べつのきょうだいを戦闘で徹底的に出し抜いて、自分は保護を求めてローマに逃げた。

 ユグルタはローマの元老院議員に賄賂をつかませて、この状況に抜け目なく対処した。この賄賂によって、元老院にヌミディア分割のための委員会を任命することを確約させ、早速委員会にも賄賂を贈った。

 こうしたユグルタのいかがわしいい倫理観が、ローマ人民を敵に回し、ローマとヌミディアの間で戦争が勃発した。

 ここでもユグルタのいいかげんなルール感覚が、却って彼にとって功を奏することになった。

 ローマとの戦争中、ユグルタはたびたび敵兵に賄賂を贈り、それが軍事的勝利を容易にした。

 最終的にはローマとの戦いに敗れたが、それはずる賢さが足りなかったせいではない。ユグルタの義父が彼を裏切って、ローマの執政官に売ったのだ。裏切りは新たな裏切りを産むものなのだ。

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ローマ人に捕らえられ鎖につながれたユグルタ王 / image credit:public domain/wikimedia

9. パルティアのフラアテス4世(紀元前38~紀元前2年)

 パルティアの若きフラアテスが父親の後継に指名された直後、父を亡き者にして継承プロセスを手っ取り早くしようと考えた。

 さらにフラアテスは念のためにきょうだい30人も殺してしまった。父親は後継者選びを誤ったのかもしれない。

 しばらくの間、パルティア最大のライバルであるローマ帝国は、フラアテス4世に対して、彼の近親者たち以上に不利な戦いを強いられた。

 フラアテスは戦いでマルクス・アントニウスを破り、その後、皇帝アウグストゥスを動かしてパルティアと和平を結ばせた。

 アウグストゥスは人質にとっていたフラアテスの息子を返し、親善の印にムサという名の側室を贈った。

 これは、見た目より好意的な行いではなかったようだ。フラアテスとムサには息子ができ、フラアテスはこの息子を高く評価して、自分の継承者にしようと考えたが、明らかに父親と同じ過ちを繰り返すことになった。

 その後、フラアテスはムサに殺され、息子のフラアテス5世がパルティア王となった。

 フラアテス5世もまた、スキャンダルにおいて父親を上回ったのかもしれない。彼は実母であるムサと結婚し、それによりムサは王妃であると同時に皇太后にもなった。

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フラアテス4世が描かれた硬貨 / image credit:Classical Numismatic Group / WIKI commons

10. アクムスのエザナ(西暦320~西暦356年)

 現在のエチオピア、アクムスのエザナはとくに放蕩、残酷、狂気だったということはなかったようだ。むしろ、エザナは並外れた善意ある統治者として史上で注目に値する。

 王国じゅうで配られた彼の硬貨に刻まれたモットーには”これが国を喜ばせますように”とあり、真の公僕の言葉のように思える。

 エザナは異教徒として生まれたが、父親は、奴隷の身分だが信頼できるフルメンテウスに息子の教育を任せた。

 フルメンテウスは、シリアキリスト教徒で、若い頃に紅海で乗った船が難破したために奴隷の身分になったようだ。

 彼はエザナをキリスト教に改宗させただけでなく、国全体がキリスト教国となってから、エチオピア初のキリスト教司教を務めていることから、かなりの教育者だったようだ。

 エザナは国境を強化、拡大し、古代アフリカ文明の伝説のひとつ、クシュの首都であるメロエの征服をおし進めた。だが、エザナは自らの遠征は進めなかった。

 その代わり、新たな臣民たちにアクスムの肥沃な土地を与え、自分の統治下でまとまって繁栄するよう奨励した。

 エザナの統治が終わっても、アクスムは難民を歓迎し、誰に対しても公平な社会としての評判をずっと保ち続けている。

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エザナが4世紀に建立した石碑。ゲエズ語、サバ語、ギリシア語の3つの言語で書かれており、エザナ王のキリスト教への改宗や、北東アフリカの軍事的経済的大国であるヌビア(クシュ)のメロエ王国に対して軍事遠征を行ったことが記されている / image credit:Sailko / WIKI commons

追記:(2024/02/29)本文を一部訂正して再送します。

References:10 Ancient Kings Who Were Too Dramatic For Your History Books / written by konohazuku / edited by / parumo

 
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あまりにもドラマチックな生涯を送った古代の王10人