原則65歳から受け取れる年金を後ろ倒しで受け取ることにより、受給額を増やせる「年金の繰下げ受給」。しかしなかには、年金が増えても、繰下げ受給を選んだことを「失敗だった」と悔やむ人もいるとか……。いったいなぜでしょうか? 本記事では、Aさんの事例とともに年金繰下げ受給の落とし穴について、CFPの伊藤貴徳氏が解説します。

「給料」と「年金」の受け取りバランス

65歳以降の継続雇用が普及し、給料と年金の受け取りバランスに頭を悩ませる方は少なくありません。Aさんもそのひとりです。

Aさん(71歳)は、地方の中堅企業勤務(建設業)の役員です。65歳以降も役員として雇用、現在の手取りは20万円です。ほかに家族はおらず、自分の生活費は収入で賄えている状態です。

64歳となったとき、65歳から年金を受け取ろうかと考えましたが、給料で生活できており、また仕事の忙しさも相まって70歳まで受給せずにいました。

しかしさすがに「そろそろ考えなくてはいけない」と思い立ち、Aさんは年金の繰下げ受給を行うことにしました。

「年金の繰下げ受給」とは?

老齢年金は、65歳で受け取らずに66歳以後75歳までのあいだで繰り下げると、増額した年金として受け取ることができます。繰り下げた期間によって年金額が増額され、その増額率は一生変わりません。どのくらい増額されるかというと、1ヵ月繰り下げるごとに0.7%が増額となります。

つまり、65歳から1年間繰り下げて66歳から年金を受け取ると、

0.7%×12ヵ月=8.4%

の増額となります。令和4年4月より、75歳まで繰下げができるようになったため、75歳までの10年間繰下げをすると最大で84%も年金額を増加させることができるのです。

Aさんはいくら年金を受け取れる? 

Aさんの例(65歳時点)

老齢厚生年金100万円/年 老齢基礎年金79万円/年

65歳受給開始のとき179万円/年 1ヵ月あたりおよそ15万円

1年間繰り下げた場合

老齢年金を繰り下げる前より、179万円×8.4%=194万円/年(およそ16.2万円/月)

10年間繰り下げた場合

老齢年金を繰り下げる前より、179万円×84%=329万円/年(およそ27万4,000円/月)

5年間繰り下げたAさん

Aさんは年金請求時70歳。5年の繰り下げを行ったことにより42%の増額となりました。年金額にするとおよそ毎月21万円です。  

このタイミングで請求した理由は、「あまり長くもらわないでいても、自分がもし早く死んでしまったら意味がないと思い受け取ることにした」とのこと。  

Aさんのいうとおり、受給開始直後に本人が亡くなってしまった場合などにはせっかくの増額メリットを享受できません。年金を繰り下げた場合は、繰り下げた期間に応じて増額となりますが、万が一の際のリスクも考慮しておくことが必要です。

年金を繰り下げ受給したAさん。年金を受給し始めたころ、あることに気が付きます。

「なんだか手取りが減っている気がするな……。というより、引かれる金額が増えたような気が……」

Aさん(単身男性)が70歳まで年金を繰り下げた場合の手取り額の変化

まず、65歳時点で年金を繰り下げた場合の給与手取り額をみていきましょう。給与は月20万円です。このうち、

社会保険料 約3万1,000円 

所得税・住民税 約1万1,000円 

が引かれ、およそ4万2,000円が減少するため、手取り額としてはおよそ15万8,000円となります。

次に70歳時点で年金を繰り下げた場合の手取り額をみていきます。 給与は月20万円ですが、年金が月21万円であるため、収入合計としては月41万円となります。このうち、

社会保険料 約4万2,000円 

所得税・住民税 約2万9,000円 

が引かれ、およそ7万1,000円が減少するため、手取り額としてはおよそ33万9,000円となるのです。収入から引かれる額としては約3万円多くなりました。ただし、中小企業の多くが採用している協会けんぽの場合、社会保険料は変わりません。

※料率は各都道府県によって異なります。ご自身の計算をされる際はお住まいの料率をご確認ください。 

「これじゃあ、繰下げ受給なんてしなければよかった! 大失敗じゃないか!」Aさんは嘆きます。

年金が増えると増えるもの

1.​社会保険料

年金は、給料などと同じく所得扱いとなるため、年金の増加はすなわち収入の増加となります。そのため、健康保険などの社会保険料が増加します。

2.介護保険料

40歳以上の方は加入必須の市区町村が運営する保険制度です。保険料率は各自治体によって異なりますが、いずれにしても所得の増加とともに保険料は増加します。

3.所得税・住民税

所得税は、所得に応じて税率が異なります。一般的に所得が上がれば上がるほど税率は上がります。

1~3はすべて支出の部類にあたります。つまり、年金が増えることで収入が増加すると、それに伴い支出も増加。結果、手取りはそこまで増えないということになるのです。

年金を繰り下げると確かに受給額は増えますが、繰り下げれば繰り下げる分、手取り額が増えるわけではないことに注意が必要です。

医療費の自己負担額の増加にも注意! 

たとえば70歳以上75歳未満の方の場合、通常は医療費の自己負担は2割ですが、現役並み所得者(年収370万円〜)の場合は現役世代と同じく3割負担となります。加齢とともに治療費がかかりやすくなることも考えると、治療費負担の増加は支出の増加につながります。 

国民年金受給者の繰上げ・繰下げ受給状況の実態

生命保険文化センターの調査によると、年金繰上げと繰下げの割合については、「繰上げ受給は国民年金27.0%、厚生年金0.6%繰下げ受給は国民年金1.8%、厚生年金1.2%」となっています(2021年時点)。  

現在は繰上げを選択する方の割合が多いですが、繰下げ受給者の割合は1%台です。ただ、繰下げ可能年齢が75歳まで拡大されたのに加え、積立NISA、iDeCoなどの普及により年金を確保する方法が増え、今後は繰下げを選ぶ人が増えることが予想されます。

ここで大切なのは、「年金が増えるから繰り下げる」という考え方ではなく、「現在の収入と支出のバランスを計算して、年金を受給して補う必要があるかどうか」という考え方です。  

たとえば、現在も働いていて給料だけで生活ができているのであれば、年金を申請してまで受給する必要性は低いです。  

増額できるからという理由のみで年金の支給を遅らせ、そのために生活を切り詰めなければならない……という状態はあってはならないですし、逆に繰り上げて受給することで余分な支出を増やすようなことも避けなくてはいけません。

シンプルな「年金はいま必要か、必要ではないか」の判断基準

Aさんは現在も仕事を続けており、収入だけで生活ができていたために、年金を70歳まで請求しませんでした。  

結果として繰下げ受給したときに手取りが減少してしまうという誤算が生じたため、Aさんは大失敗だったと悔やんでいました。しかし、生活を切り詰めたわけではなく、無理なく繰下げができていたので、結果として、繰下げの選択は悪くなかったともいえるでしょう。 体力的な限界や衰えにより、いずれ仕事を辞めるタイミングがやってくると思います。そのとき、年金収入だけでの生活に切り替わりますが、Aさんは年金収入だけでも暮らしていけそうです。年金だけの生活になったときに、繰下げをしていてよかった、と思うかもしれません。

<参考>

生命保険文化センター 老齢年金を繰上げ・繰下げ受給している人の割合はどれくらい?

伊藤 貴徳 伊藤FPオフィス 代表

(※写真はイメージです/PIXTA)