従業員からの賃上げ要求で、物価高物価上昇や人手不足から企業は賃金を上げていますが、その帰結はなんでしょうか。本記事では、元IMF(国際通貨基金)エコノミスト東京都立大学経済経営学部教授の宮本弘曉氏による著書『一人負けニッポンの勝機 世界インフレと日本の未来』(ウェッジ社)から、賃上げによる日本経済への影響について解説します。

物価上昇で賃金アップが求められるが…賃上げは可能なのか?

物価が高まる中、賃上げが期待されています。賃上げは、賃金水準を一律に引き上げるベースアップ(ベア)と、年齢や勤続年数が増えるごとに上がる定期昇給で構成されています。

一般的に、ボーナスや時間外手当は基本給に基づいているため、ベアが実施されると、それに伴ってボーナスや手当も上昇します。企業にとっては、将来にわたって人件費が増えることになります。

日本の賃金決定に大きな役割を果たす「春闘」

40年ぶりの高インフレを背景にした2023年の春季労使交渉(春闘)は好調で、多くの業種で満額回答が相次ぎました。春闘とは、労働組合と企業の経営陣が賃金の引き上げなどを交渉することです。

企業や官庁は、新年度が始まる4月に従業員の給与水準を見直すことが一般的です。そこで、労働組合は、見直し前に賃上げを要求します。賃上げに関する交渉が本格的に行われるのが例年2月から3月にかけてなので、「春の闘い」、すなわち「春闘」と呼ばれます。

日本の労働組合は、多くが企業ごとに組織されているため、交渉力が弱くなりがちです。そこで、個々の組合が連携して一斉に行動を起こすことで、この弱点を補おうという意図から春闘が始まりました。開始当初は大きな成果を上げることはありませんでしたが、高度成長期には春闘を通じて毎年賃上げが行われ、春闘は日本の賃金決定に大きな役割を果たしてきました。

また、賃金交渉は本来、労使間で行われるものですが、2014年の春闘から政府が経済界に対して賃金の引き上げを要請する「官製春闘」が始まりました。

図表1は主要企業の春季賃上げ率の推移を示したものです。1985年以降、ピーク1990年の5.94%で、その後、賃上げ率は鈍化し、2000年以降の平均は約1.9%となっています。

連合が春季労使交渉の企業からの回答を公表していますが、2023年の賃上げ率は定期昇給とベアを合わせて平均3.58%〈第7回(最終)集計結果〉となっています。賃上げ率が3%を超えるのは、1994年以来、29年ぶりのことです。

深刻化する人手不足

背景にあるのは、物価動向と人手不足です。帝国データバンク「2023年度の賃金動向に関する企業の意識調査」によると、物価動向を賃上げ理由に挙げる企業が急増しています。

賃上げを行う意向のある企業のうち、57.5%が物価動向を理由に挙げており、その割合は2022年度の21.8%から大幅に上昇しています。また、7割の企業が「従業員の生活を支えるため」を理由に挙げています。インフレが加速する中で、賃金を上げることが求められている様子がわかります。

同調査では、賃上げ理由として「労働力の定着、確保」を挙げる企業の割合が最も高い71.9%となっています。これは、賃金を高くしないと人が集まりにくい状況になっていることを示しています。

企業の人手不足感が一段と強まっていることは、日本銀行の「企業短期経済観測調査(短観)」からもわかります(図表2)。

短観は日本銀行が3か月ごとに行っている調査で、企業の雇用人員の過不足を示す雇用人員判断指数を公表しています。これは、従業員の数が「過剰」と答えた企業の割合から「不足」と答えた企業の割合を差し引いたもので、マイナスが大きくなるほど人手不足だと感じる企業が多いことを示します。

2023年6月の短観では、製造業でマイナス20、非製造業ではマイナス40となっており、コロナ禍直前の2019年12月の数字とほぼ同じになっており、企業の人手不足感が一段と強まっていることがうかがえます。

また、日本商工会議所の調査によれば、中小企業の64.9%が人手不足を認識しています。コロナ禍で「人手が不足している」と回答した企業の割合は一時低下しましたが、過去最高だった2019年調査の66.4%に迫る勢いで再び人手不足の状況となっています。

業種別では、建設業、運輸業、宿泊・飲食業で7割を超える企業が人手不足を認識しています。そして、求職者に対して魅力ある企業・職場となるための取り組みとして、6割弱の企業が「賃上げの実施や募集賃金の引き上げ」を挙げ、最も多くなっています。

人手不足は企業の倒産にも影響を与えています。帝国データバンクによると、2022年には人手不足が原因の倒産が前年比26%増加しました(図表3)。

増加は3年ぶりで、倒産件数全体の増加率(6%)よりも大きいという事実が、人手不足の深刻さを物語っています。

賃上げによるリスク

ここまで見てきたように、物価上昇や人手不足から企業は賃金を上げていますが、その帰結はなんでしょうか。

企業は、賃金上昇でコストが増加し、収益が増えない場合には賃上げ分を吸収できず、存続が厳しくなります。特に、中小企業や業績が振るわない企業は、経営が圧迫されるリスクが高まります。

一方、これが経済全体にとって問題かというと必ずしもそうではありません。経済の新陳代謝が進むからです。賃上げができない、あるいは賃上げをすることにより存続ができなくなるような生産性の低い企業が市場から撤退することで、経済全体の生産性が高まり、経済の成長が促される可能性があります。

問題は、この経済の新陳代謝が円滑に行われるかどうかです。勤め先の企業が存続できなくても、従業員が他の企業に高い賃金や好待遇で移動できれば、一時的に失業することがあったとしても、それは労働者にとって必ずしも悪い結果とはなりません。

しかし、労働市場の柔軟性が十分でない場合や、新たな雇用創出が遅れる場合は、失業者が増え、経済全体にマイナスの影響を与える可能性があります。

そこで、求められることは、労働市場の柔軟性を確保し、雇用機会を増やすことです。なお、企業が労働生産性を向上させる取り組みを行い、賃金上昇に伴うコスト増を吸収できるように努めることは言うまでもありません。

宮本 弘曉

東京都立大学経済経営学部

教授

※画像はイメージです/PIXTA