(町田 明広:歴史学者)

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◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは①
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは②
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは③

禁門の変と小松の動向

 元治元年(1864)7月18日、大目付永井主水正、目付戸川鉾三郎・小出五郎左衛門より一橋慶喜の命として、各藩の守備について命令があった。薩摩藩は天龍寺の主力に対する先鋒を命じられたが、翌19日の長州藩征討の叡慮によって、この沙汰は幕命でありかつ勅命となったのだ。この間、朝廷内の動揺が激しく、親長州藩廷臣の勢い甚だしかったが、慶喜の尽力によって鎮静したことを、小松帯刀鹿児島に伝えている。

 19日未明、小松は藩兵の人数を天龍寺と乾門に分け、天龍寺方面に向けて一隊が出ようとしていたところ、中立売御門あたりで砲声があった。そのため、すぐに乾門に集中させたが、長州藩の猛烈な攻撃にさらされる他藩の援護に廻らざるを得ない情勢となった。そこで、大砲・小銃隊を押し出し、激戦を繰り広げた結果、長州藩は敗走を始めたのだ。

 薩摩藩は、在京の久光の2子(島津忠鑑・久治)を奉戴しながら戦闘を繰り広げ、西郷隆盛伊地知正治らが大活躍したが、実際の総指揮は小松が執った。西郷も小松の指揮の下、足に怪我をしながら自身の部隊を引率した。小松は今後も「禁闕守衛」に専心して、朝威高揚に努めることを鹿児島藩庁に申し送った。そして、藩士の活躍などを個々に列挙し、藩主父子からの褒賞を懇請したのだ。

禁門の変後の小松の重要性

 小松を中心とする西郷・吉井・伊地知からなる在京要路は、禁門の変後の薩摩藩の方針として、将軍徳川家茂の進発を前提とした強硬論であった。それに応じて、藩主島津忠義から長州征伐に自ら出陣する旨、臨戦態勢構築を宣言する藩達(8月5日)が出された。

 こうした中で、鹿児島から小松に対する召命が繰り返され、帰藩することになり、8月21日には大坂を出発した。その目的は、下層藩士の勢威増大(言路洞開・藩政関与要求)に対する対処があった。その動向を抑えて、上からの統制を回復させ、併せて様々な藩内改革の実現を期待されたのだ。

 鹿児島からの小松召命に対して、中央政局において小松は必要不可欠な人物と目されていた。西郷は、「現在の情勢は至極切迫している。長州藩の率兵上京はもちろん、慶喜の陰謀も油断できないものがあり、どのような変動が生じるとも限らない。兵庫開港問題も決着がついておらず、当面の災禍も想定され、小松の退京は見合わせて欲しい」と、在京藩士一同として、繰り返し鹿児島藩庁に小松の在京を懇請したのだ。

 小松は家老という立場で将軍家茂に謁見し、慶喜を始め閣老等の幕府要路とも懇ろに行き来できる、薩摩藩唯一の藩士であった。同時に、その政治力の高さも相まって、中央政局における薩摩藩の周旋において、欠くことができない最重要な立場にあった。通説では、薩摩藩は西郷・大久保に率いられ、久光は利用されたのみの存在とされてきたが、実際には「久光―小松体制」の下で、西郷・大久保は活躍できたのだ。

薩摩藩の長州藩寛典と廃幕志向への転換

 禁門の変後、幕府は第一次長州征伐に向けて動き出した。しかし、薩摩藩や会津藩が期待した14代将軍徳川家茂は江戸から動こうとはせず、尾張藩主時代に安政の大獄で失脚していた徳川慶勝が総督となった。慶勝は幕府軍の敗北を危惧し、西郷隆盛を参謀格で従軍させ、何かとその意見に耳を傾けた。慶勝は、薩摩藩の取り込みも企図しており、西郷の重用はその結果である。

 第一次長州征伐直前の薩摩藩は、それまでの長州藩厳罰論から藩論を劇的に転換していた。島津久光は、長州征伐後に幕府の矛先が薩摩藩に向かうことへの警戒心から、藩地に割拠して、貿易の振興や軍事改革・武備充実による富国強兵を目指し始めており、幕府から距離を置いて将来の戦闘に備えるという、「抗幕志向」を打ち出したのだ。

 一方で、武力を伴わない外交権の移行による事実上の幕府打倒、つまり幕府を廃する「廃幕」を企図することも、同時に実行していた。慶応期の薩摩藩の動向において、これらの政略を無視することはできない。前者は武力発動による抗幕路線に、後者は大政奉還による廃幕路線に連動した。

 薩摩藩は長州藩に対する厳罰論から寛典論に180度転換し、西郷の周旋によって、第一次長州征伐は干戈を交えることなく終了した。なお、この間に西郷は長州藩の支藩である岩国の吉川経幹を通じて、秋波を送り始めて長州宗藩との連携を模索するに至ったのだ。

小松の薩長融和周旋―龍馬起用と「小松・木戸覚書」

 長州藩へのアプローチは支藩である岩国を通じて実行されたが、高杉晋作による功山寺挙兵以後の内訌による藩内の混乱も相まって、宗藩である長州藩本体との接点を容易に見出すことはできなかった。そこで小松は、勝海舟失脚後に行き場を失っていた坂本龍馬を薩摩藩士に仕立て上げ、長州藩宗藩との連携を目指した。

 長州藩の実力者である木戸孝允は、軍艦・武器が購入できる見込みがない閉塞した現状を打開するため、井上馨・伊藤博文を長崎の薩摩屋敷に派遣して援助を求めることにした。慶応元年(1865)7月21日、井上・伊藤はたまたま長崎に来ていた小松と会見し、武器購入に関連して薩摩藩の名義貸しを懇請したのだ。

 小松は、長州藩への支持は薩摩藩のためでもあり、幕府の嫌疑などには見向きもせず、どのような尽力でもする旨開陳し、その要請を即諾した。そのおかげで、伊藤はグラバーと交渉して武器(銃)を入手することが叶った。また、井上は小松に同道して鹿児島まで行き、軍艦購入の周旋を行った。伊藤は長崎に残り、銃の調達などに尽力し、井上が長崎に戻ると直ぐに、薩摩藩の軍艦に銃を積み込んで帰藩した。

 なお、井上は鹿児島に20日間にわたって滞在し、桂久武大久保・伊地知貞馨らと会談し、これまでの両藩間の疎隔を融和し、皇国のために薩長連携が必要であるとの意見で一致した。こうした経緯を踏まえ、長州藩主毛利敬親・広封父子は島津久光・忠義父子に対して9月8日に礼状を送った。薩長融和が、本格的にスタートした瞬間である。

 こうした経緯を踏まえ、慶応2年(1866)1月に「小松・木戸覚書」(薩長盟約・薩長同盟)が結ばれるに至った。この間の経緯は、拙著『薩長同盟論』(草思社、2018年)および『新説 坂本龍馬』(集英社インターナショナル、2019年)を参照いただきたい。

 なお、「小松・木戸覚書」は軍事同盟ではなく、薩摩藩が長州藩の復権をサポートするレベルに止まったが、両藩士の積極的な人的交流が始める起点として、極めて重要であった。そして、その中心にいたのが、薩摩藩の小松帯刀と長州藩の木戸孝允であったのだ。

「小松・木戸覚書」の成立から9ヶ月後の10月15日、薩摩藩から黒田清綱らが修好使節として、長州藩主毛利敬親のもとに派遣され、島津久光・茂久父子からの親書が渡された。その返礼として、木戸が修好使節として薩摩藩に赴き、11月29日に久光・茂久父子に謁見するなどの歓待を受けた。こうした藩主間レベルの修好の事実をもって、「小松・木戸覚書」による薩長連携が、名実ともに「同盟」へと昇華したのだ。

 次回は、幕長戦争、将軍空位期、幕薩の蜜月と決裂、四侯会議、薩土盟約といった幕末史における重要事象を追いながら、薩摩藩・小松帯刀の動向を詳しく見ていきたい。

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坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵 人事院ホームページ, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons