数多くの番組に携わってきた植竹公和氏(69)は、時代を作る仕掛け人だった。硬軟自在にバラエティーを支えてきた放送作家が当時の熱気を語る。

 植竹氏の作家としてのキャリアのスタートは、昭和の「M‐1グランプリ」とも言えるお笑いスター誕生!!日本テレビ系、80〜86年)がきっかけだった。

「大学の同級生がギャグ・シンセサイザーというコンビでコントをやっていて、その台本を僕が書いて演出もやっていたんです。『お笑いスタ誕』にも一緒に現場入りして、BGM担当としてカセットテープで音出しもしていた。そのコンビがアマチュアながら10週勝ち抜いてグランプリを獲ったんです。でも、賞金100万円は1円ももらってない。もちろん、番組からもギャラなんて出ませんよ」

 当時は芸人にネタを提供して、台本を書く作家などいなかった。植竹氏の元には依頼が殺到したという。

とんねるずやシティボーイズ、小柳トムさんに『植さん、書いてください』と頼まれたこともあった」

 そもそも植竹氏は放送作家として活躍する前、大学生の頃に数々のものまね番組に出演して、チャンピオンになるほどの演者だった。その活躍ぶりに注目した芸人がいた。

「ある時、片岡鶴太郎さんから電話がかかってきたんです。出演したものまね番組を見てくれていたらしく、『ネタを作ってくれないか』と。鶴ちゃんとは年齢も一緒で気が合った。『笑っていいとも!』(フジテレビ系、82〜14年)での鶴ちゃんのコーナー『妙なヤツ』のネタは僕が考えていました。ギャラは一切もらえませんでしたが、飲みに連れて行ってくれましたね」

 そんな縁で携わったのが夕やけニャンニャン(フジ系、85〜87年)だった。

「鶴ちゃんに『いいコーナーがないから何か考えて』と言われて参加。信号待ちをしている人間の誰が1番で横断歩道を渡りきるかを予想する『交差点ダービー』というのを考えました。そういえば、夕ニャンもノーギャラだった(笑)」

 深夜のお色気番組といえば11PM日テレ系、65〜90年)の絶頂期だった。今では考えられない内容だが、

「スタジオでストリップショーをやっていましたね。だから、劇場にいい踊り子さんがいないか探しに行ったこともあった」

 同番組では、こんな騒動も起きている。

「おそらく村西とおる監督を初めてテレビに出演させたのはイレブンでしょう。AVを紹介するコーナーがあって、(田原俊彦と関係を持ったとされる女優が出演した)『ゴメンね!トシちゃん』という監督の作品を紹介したんです。するとジャニーズから圧力がかかって、コーナーはなくなり、村西監督も降板となりました」

植竹公和:放送作家として「オレたちひょうきん族」「上岡龍太郎がズバリ!」など多数、ミュージシャンとして杏里、角松敏生らの作曲も担当。80年代より新人コント大会を渡辺正行と主催して関東のお笑いを牽引した。

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