2024年4月13日(土)~7月15日(月・祝)新国立劇場 小劇場にて上演される『デカローグ 1~10』。この度、演出の小川絵梨子と上村聡史、映画監督の石川慶が参加したトークイベントの模様が届いたので紹介する。
 

『デカローグ』小川絵梨子×上村聡史×石川慶トークセッション

ポーランドの鬼才クシシュトフ・キェシロフスキが旧約聖書の「十戒」をモチーフにTVシリーズとして手がけた十篇の物語『デカローグ』を完全舞台化した『デカローグ 1~10』が新国立劇場にて4月から7月にかけて上演されます。去る2月12日、新国立劇場内にて、本作の演出を務める小川絵梨子芸術監督と同じく演出を担当する上村聡史氏、そしてキェシロフスキが映画を学び、教鞭を取ったポーランド国立ウッチ映画大学で映画を学んだ経験を持つ映画監督の石川慶氏(『ある男』、『蜜蜂と遠雷』ほか)によるトークセッションが開催されました。

(左から)小川絵梨子、上村聡史、石川慶

(左から)小川絵梨子、上村聡史、石川慶

ーーまずはみなさんの『デカローグ』との出会いとそこで感じた魅力についてお聞きしたいと思います。石川監督はウッチ映画大学在学中にご覧になったんですか?

石川:そうですね。当時、既にキェシェロフスキは亡くなってはいましたが、まだ彼が遺した色が濃く残っている時期でした。映画を作るにも自分が暮らしている国ではないこともあって、題材を見つけるのに苦労していたんですが、先生から「『デカローグ』は見たか?」と聞かれて「見てない」と答えると「いますぐ見てこい」と。その日のうちにまとめて全部見て「すごいな……」と思いました。いまでも、映画を作っていて、困ったら見直す作品です。

小川:私もアメリカの演劇学校にいた時に友人に勧められたんですが「こんな面白いものがあるんだ!」と思いました。当時はまだ英語が下手で、わからない部分もあったんですが、日本に帰って字幕付きのものを改めて見て「そういうことだったのか」と思う部分もたくさんありました。

上村:僕は学生時代、大学の図書館にヨーロッパの文芸的な映画のレーザーディスクがあってよく見ていたんですが、すごく分厚いディスクがあって、「全部で10時間? まあ時間もあるし、見てみるか」と(笑)当時は20歳でまだ若かったのか、淡々とした世界観がよくわからなかったんですよね(苦笑)。今回、お話をいただいて改めて見たら、ここまでメタファーを表現し、かつ人間の内面を表現しと、こんなに深い作品だったのかと思い、あの頃の自分を恨みたいです(笑)。

石川:学校で「『デカローグ』には映画のすべてが詰まっているから見ろ」と言われましたが、自分が作るようになって見直すと、映画のすべてというより、人間の世界のすべてが詰まっているなと思います。ワルシャワ郊外の団地で起こる人間ドラマですが、ミクロコスモスというか、映画を作る上でよくストーリーやテーマ、キャラクターが大事だと言われますけど、もっと大きなものを扱っているんですね。映画ってここまでできるんだと。映画作家だけでなく芸術をつくっている人間にとっての憧れ、理想の形がここにあると思います。

ーー小川さんは本作を「いずれ舞台に」という思いはずっとお持ちだったんですか?

小川:最初に見た当時は「映像の世界のもの」と思っていたんです。でも、10年ほど経って、日本で「やりたい作品はありますか?」という話になった時、どうしても私の中にこの作品が残っていて。特に舞台化を考えずに映画のシナリオを使って、ワークショップをやってみたりしたんですが、伝わり方は映像と違うかもしれないけど、演劇として人間の物語を大きな引いた視点で描くのはできなくはないなと思い「いつかやってみたい」と思っていました。ただ、1話ずつが独立しているとはいえ、十篇で神話、サーガとなっているので、全部やらないとダメだと思っていて、でも10話連続で上演させてくれるプロデューサーは普通はいないので、(自身が芸術監督を務める)ここでやりますということになりました(笑)。

石川:(舞台化を聞いて)正直、「あぁ、仲間に入れてほしかったな」と思いました(笑)。僕自身、日本のコンテクストに落とし込んでTVでできないかと企画書を書いたこともあるくらい、自分の中に残っていたので。最初はいくつかのエピソードを舞台にするのかと思ったら、全10話をやるということで、しかも俳優陣の顔ぶれを見て「これはガチのやつだ」と思いました(笑)。

石川慶

石川慶

小川:新国立劇場、ガチです(笑)。

石川:お2人が演出と聞いて、ワクワクしてます。早く見たいです。

上村:僕は小川さんにお話をいただいて、二つ返事で「やります」と言いました。機会があってポーランド演劇に興味を持つようになり、ワルシャワやクラクフやボロツワフなど、たびたびへ行くようにしていた時期がありました。クリスチャン・ルパとクリストフ・ワリコフスキという現代のポーランド演劇のトップを走る2人の追っかけみたいなものなんですけど。自国や生きていることへの葛藤を新しい方法を用いながら作っている演出家で、俳優も西側とはまた違う、無駄なものをそぎ落としたエッジの強い表現が魅力的で自分にヒットしました。また、ワルシャワの空気が西側とは違い、人に奥行きや個性を感じると言いますか、決して愛想がいいだけではなく無骨の美学みたなのもあって。あの風景にハマって、この話が来た時にすぐ「ぜひやります」と言いました。

そこからもう一度、『デカローグ』を見て、映像でここまで評価が高い作品なので、舞台芸術ならではのやり方に苦労するだろうと思いつつ、どこかで舞台でもいけるという確信がありました。

ーー石川監督は日本の大学で物理学を修めた後、ポーランドに渡って映画を学ばれたそうですが、そこで初めてポーランドに行かれたんですか?

石川:そうですね。「なんでポーランドに?」と毎回聞かれるんですけど、しっくりくる答えが自分の中でも見つかってないんですね(笑)。当時、旧共産圏に興味があって、チェコとかロシアの学校も見ましたし、キューバも見て、最終的にポーランドに決めたんです。ポーランドの冬って暗くて長いんですよね。4月、5月にならないと暖かくならない長いトンネルに入るような長い冬で、『デカローグ』の風景そのままで、みんな「気が滅入る」と言うんですけど、自分はこの冬がすごく好きだったんです。内省的な静かな冬で、創作に向き合う意味でも合っていて、5~6年を過ごしました。何とも言えない空気感ですよね。ほかの国にはなかなかないなと思います。

ーーウッチ映画大学ですが、演劇的なことも勉強されて、演出をされたこともあったそうですね?

石川:僕が在籍したのは「演出科」だったので、授業の半分くらいは舞台演出で、4分の1がフィクション、4分の1がノンフィクションという感じでした。ヨーロッパでは、映画監督として4年に一度くらいのペースで映画を撮って、残りの3年は舞台を演出して、そこで俳優と知り合ったり、いろんな題材を見つけたりして、また映画を……というサイクルでやっている人が多いんですよね。大学では安部公房の『棒になった男』やハロルド・ピンターの『料理昇降機』などの演出をやっていました。

上村:「ポーランド映画=ウッチ映画大学」と言ってしまうと大げさかもしれませんが、そういうイメージがあります。ポーランドの監督ってアンジェイ・ワイダしかり、キェシロフスキしかり、個性的でいろんな人がいる印象あるんですけど、ウッチ映画大学の教育方針はどういう感じだったんですか?

上村聡史

上村聡史

石川:方針としてはガチガチの権威主義でした(苦笑)。「自由に撮りたいなら、いますぐ退学届けを出して撮りに行け」という感じで、そこからロマン・ポランスキーやイエジー・スコリモフスキが出てくるっていうのが面白いですよね。

ポーランド映画の歴史をふり返ると、ちょうど『デカローグ』の時期の1989年に自由化しますけど、そのあたりをピークに衰退の道をたどることになるんですよね。ある種の縛りがある中だったからこそ、映画作家がクリエイティビティを発揮して、世界的に通用する普遍的な作品を撮ってきたけど、いざ「なんでも撮っていい」と言われても、何を撮っていいかわからなくなったところあるんじゃないかと思います。ポランスキーは「映画学校で勉強したこと忘れることで映画監督になれた」と言っています。

上村:縛りがあったことで表現が強くなるというのは、皮肉な部分でもありますね。『デカローグ』もそうですが、タイトルの意味(=十戒)とは裏腹に、人間の感性や本能を実直に見つめていますが、80年代という最後の縛りのある時代にそういう表現が生まれるというのは面白いですね。

ーー『デカローグ』というと、宗教的な戒めや束縛を意味しますけど、見てみると非常に現代的なテーマを感じさせられます。

上村:石川さんが「大きいところから世界を見ている」とおっしゃっていましたが、そのあたりがキェシロフスキの持ち味なんでしょうか? 企画自体が全10話からスタートしているところがそうさせているんでしょうか?

石川:面白いなと思うのが、キェシロフスキの作品のタイトルは数字がついていることが多いんです。『ふたりのベロニカ』は“2”、『トリコロール』は“3”ですし、もともとドキュメンタリー作家で、学生時代は「フィクションに興味ない」と公言していて、卒業後に撮ったドキュメンタリーは0歳から100歳までの人に「あなたは誰?」「あなたの夢は?」って聞いていくというもので、0歳の赤ちゃんに聞いても答えられないんですけど(笑)、お構いなしに聞いていくんです。

人間の営みを上から見て、でもそこで突き放す感じというより、夜空を見上げて「なんて人間はちっぽけなんだ」と感じるような慰め、温かさが残る着地点みたいなものがキェシロフスキだなと思います。でもそこで決して甘えさせてくれない結末もキェシロフスキらしさを感じますね。

ーー石川監督ご自身の作品でキェシロフスキの影響に自覚的な部分はありますか?

石川:エンディングでしょうかね。 どう捉えていいかわかんないところがあって、安易なエンディングに行きそうになると「待て待て!」と。キェシロフスキの作品は、自分が知っているドラマツルギーと全然違うところからぶった切られるようなエンディングが多い気がしていて、わかった気にならない、安易に「よかった、よかった」とさせない終劇の仕方は、自分が立ち止まった時にいつも意識させられますね。

小川:『ある男』の最後は、まさにバンっと切られてお客さんに託される部分を感じました。

石川:確かにそういうところかもしれません。突き放された感覚になるかもしれませんが、首根っこを掴まれてグッと持ち上げられるような感じといいますか、そういう余韻が好きなので、目指しているところではあります。

小川:個人的な興味なんですけど、あのラストで役者さんはセリフをすべて言っていて、それを(編集で)切ったんですか?

小川絵梨子

小川絵梨子

石川:いえ、言ってないですね。ただ、結末を決めて撮ってはいます。

小川:あのラストを見ると、作品が終わらずに、自分の中でずっと続いている感じがして、それはすごいことだなと思いました。

石川:ありがとうございます。僕もキェシロフスキのなんとも言えない余韻はどこから作るんだ? と考えていて、『デカローグ』も演劇になった時、どういう立ち上がりかたをするのかすごく興味があります。

ーー今回の舞台では須貝英さんが上演台本を書かれていますが、小川さんと上村さんで十篇のどのエピソードをどちらが演出するかという決定があったかと思います。ここに関して「うまくハマった」とおっしゃっていましたが……。

上村:2分くらいで決まりましたね。基本、小川さんが「好きなのをチョイスしてください」と言ってくれたんで、僕は自分が好きなのを羅列し、ふてぶてしいですけど、逆に「これは小川さんがやったほうがいいよ」とか言わせていただいたり。

たとえば8話の「ある過去に関する物語」は、倫理学の教授とユダヤ人の研究者の2人の女性の間に起きた、戦時中のある出来事に関する物語なんですけど、これはぜひ僕がやりたかった作品で。この距離感——2人の女性同士の距離感もそうですが、過去と現在との距離感の取りかたにとても興味がありました。

逆に10話の兄弟の物語「ある希望に関する物語」は十篇の中でも最も質感がドライな感じで、ドライブがかかっているエピソードで、枠をはみ出した面白さもあって「これは小川さんがやったほうがいいと思う」とお伝えしました。

小川ポーランドでTV放映された当時、他のエピソードもすべて撮り終えていたけど、10話目が最初に放映されたらしいです。やはり一番エンタメ性が高いエピソードなので、おそらくプロデューサーの意向なんだろうと。第1話がヘビーなので……。

上村:(制作は)5話の「ある殺人に関する物語」に最初にとりかかったらしいですね。これも僕が「絶対に小川さんがやったほうがいいよ」と言いました(笑)。

小川:そのあたりは、長くお互いの作品を見てきているのでスムーズでした。

(左から)小川絵梨子、上村聡史、石川慶

(左から)小川絵梨子、上村聡史、石川慶

ーーそもそも普段、他の演出家の創作場面を見る機会はなかなかないと思いますが、この先、お2人は互いの創作を共有していくというレアな経験をすることになります。

小川:私は翻訳もやっているので、他の現場には結構行っていますし、芸術監督として稽古場に行くこともあるので、そこまで新しい感覚はないですね。上村さんの稽古も見ています。でも、上村さんは私の稽古は見たことがない……?

上村:入らせてくれないんですよ(笑)。僕は、現場に演出家が2人いるなんて考えられないというくらい、最初にイメージを持ち込んで創るタイプなんです。だから演出家同士が仲良くしてるなんて想像できないところではあるんですけど、でも小川さんとは、もう10年くらい、こういう場で演劇についてお話をさせていただいたりしていて、すごくフレキシブルな方なので、最初に今回のお話をいただいた時も、10話を2人で割るというのも「小川さんとならできそう」と思いました。

演出プロセスの踏み方は違うんですけど大事にしていることは似ていると思います。物語をしっかりと踏まえつつもど、演じる俳優の中にあるもの、その内面をよりどころにする——むしろ、それこそが物語になるという信念。だからこそ瞬間、瞬間の芝居を積み重ねて作品を構築しようとする姿勢にシンパシーを感じます。

小川:上村さんとは、信頼してお願いする役者さんがわりと被っていて、若干取り合いになることもあったりするんですけど(笑)。同じところに“生息”している感覚はあって、今回も世界観を立ち上げるために衣裳のトーンだったり、ある程度の部分を統一していく必要はあるかもしれませんが、細かい部分に関しては100%信用していますし、なんの心配もしていません。

俳優さんの話が出ましたが、石川監督の作品を拝見すると、すごく有機的というか、役者さんがしゃべっていなくても何を感じているのかがわかったり、カメラに関しても「ここから切り取るんだ?」と感じさせられるんですが、どうやってそういうことを決めているんですか? まったく想像がつかないんですが……。

石川:先ほどのお話を聞いていて「俳優の中にあるものをよりどころにしていく」というのは、自分も同じで、俳優の中に何かがポッと灯る瞬間がある気がしていて、そうするとカメラマンともそんなに話さなくても「これはこうだよね」と決まっていくんですよね。

自分はカメラを置く前の段取りと言われるリハーサルをやるのが毎回「長すぎる」と言われるんですけど、カメラを置いてしまうとカメラは嘘をつくというか、それで成立してしまうところがあるので、カメラを置く前に芝居が成立するかどうかを見ないといけないんです。そういう意味で、よりどころにする部分はお2人と同じなのかなと思いました。

石川慶

石川慶

小川:役者さんにどんなふうに演出をされるんですか?

石川:自分ではいろいろ説明しているつもりなんですけど、役者からすると「なんで何回もやるのかわかんない」と思っているかもしれません(苦笑)。やっていくうちにこっちの気持ちもシンクロしていくような感じで、でも役者とそれをやっている時間が一番好きですね。

ーー非常に演劇的な作り方に感じます。石川監督の作り方は演劇とも親和性が高いのではないかと……。

石川:役者によっては最初から面白い人もいるし、(途中から)上がっていく人もいます。カメラを置いてすぐに撮れないので、“時差”を計算しながらやっていきます。映画は記録する媒体なので、その1回をどのタイミングで掴むかを測りながらリハーサルをやっていますね。

ーーぜひ演劇の演出もやられませんか?

石川:小さい声で「やりたい」と(笑)。演劇は、いつもうらやましいなと思います。役者さんと濃密な時間を過ごしながら、でも最後に手放す感じもカッコいいなと思っていて、機会あればぜひやりたいです!

ーー改めて『デカローグ』を舞台にするにあたって、演劇でしかできないことはどういう部分にあると思いますか? まだ稽古前ですが、いまの段階でのビジョンや「こうありたい」と思っていることを教えてください。

小川:この『デカローグ』は、善悪で捉えられない、人間の強くないところ、悩んでしまうところ、不安や後悔してしまうこと、この選択が合っているかどうかわからない不安を抱え続けたり、自分をごまかしたりしてしまう、そういう人間にものすごく寄り添っている物語だと思います。そこで善悪をジャッジするのではなく、人間の根底への肯定感があると思います。石川監督もおっしゃったように、甘い話ではなくて厳しさもあるんですけど……。いまの時代、簡単に断罪されてしまうことや、そこで痛んだもの、恐怖、ごまかしてきたものに対し、寄り添った視点で見てくれるんですね。

人間の「わかっているけどそうなってしまう」部分、そこで生まれる葛藤や感情は単色ではなくグラデーションだと思っていて。その感覚、言葉にできない体温のある感情は、舞台だからこそ感じていただけるところがあると思います。言葉で表現しきれない葛藤のジレンマ、わかっていてもこうなってしまう複雑な感覚を生々しく舞台で感じていただけたらいいなと思いますし、そこを目指して頑張ります。

小川絵梨子

小川絵梨子

上村:この作品の登場人物たちは、80年代ポーランドのシチュエーションの中に置かれている、すなわち当時の経済状況や第二次世界大戦後の影響やなどがあり、映像では可能だったけど、日本で、さらに舞台芸術の上演としてどう面白くなるか? ということは気にしなくてはいけない部分だと思っています。いまの時点で、例えば第4話(「ある父と娘に関する物語」)では「手紙」がすごく重要な要素になっていて、映像だとクローズアップできるけど舞台では難しいですよね。これをある仕掛けを使って舞台芸術で可視化できるようにしたいと考えています。

6話の「ある愛に関する物語」では「のぞき」がキーになるんですね。映像では、前半と後半で視点が移行していく面白さがあります。映画だと2つの視点がカメラとなってメインに描かれますが、これも舞台では、身近にいるもうひとりの登場人物の視点を強調すると、舞台芸術としてもっと面白くなるんじゃないかと感じています。また、映画の脚本でカットされた部分などがあるので、舞台でそれを復活させるといった作業も行なっています。

80年代ポーランドを踏まえながらも、今上演する意味でも、生きてくことの生々しさ、そこにのしかかる葛藤を大事にしつつ、舞台芸術で効果的なことをお届けしたいと思っています。

ーーそろそろお時間になってしまいましたが……。

上村:最後に聞きたいことがあって、みなさん、どのエピソード一番好きですか?

石川:十篇でひとつの作品なので難しいですけど、第1話(「ある運命に関する物語」)が好きですね。エンディングが「こうなっちゃうの?」っていう感じですけど、そこにキェシロフスキの的な視点というか、少しコンピュータの視点も入っていて、どこにも行けない行き詰まりの中でもどこかにつながっている、キェシロフスキの冷たさと温かさが同時に感じられます。だからこそ第一章なのかなと。

小川第1話は私が演出ですけど、個人的には一番難しいです(苦笑)。映像だからこその意味を感じます。もうひとつ選ぶとしたら?

石川第1話とは全然違うテイストですが、第10話です。最後が希望で終わるのがいいですね。あれをどういう感じに舞台に落とし込むのか? ヘタすると浮いちゃうところもあって、この世界観になじませるのは大変そうだと思いながらも好きな話です。

上村:余談ですけど、1話が真冬で始まって、10話で夏に向かうところで終わるのが面白いですね。

小川:そうなんです。1話で「死」が象徴的に描かれていて、10話は人間以外のものも含めた「ライフ(命)」を描かないといけないなと。

(左から)小川絵梨子、上村聡史、石川慶

(左から)小川絵梨子、上村聡史、石川慶

石川:落語的なところがありますよね。

上村:僕はさっき8話と言いましたけど、もうひとつ7話(「ある告白に関する物語」)も好きで、登場人物みんなが抑圧されている苦しみが際立ちながらも、どこか最後に彼女たちに自由が待ってるんじゃないかと感じられて、心に残っています。8話もそうですし、『トリコロール』を見ても、キェシロフスキの女性の描き方が好きなのかもしれないです。性への美学を描きがらも、その影もしっかり描く、結果、色彩豊かな女性の在りようが立ちあがる映像が好きなんだなと思います。

小川:私は5と6ですね。10話も楽しみを最後に取っておけるけど、石川監督もおっしゃったように浮いちゃうのが怖いです。1話はもうすぐ稽古が始まりますが、自分で企画したわりに怖いです(苦笑)。この世界を立ち上げなくてはいけないし、あの美しさをただマネしようとしても、見抜かれてしまうので、できる限り正直に作らないといけないと思っています。

石川:十篇を全部を舞台化するのは、歴史的な大仕事だと思います。ぜひ十篇すべて観たいと思います。
 

取材・文=黒豆直樹  撮影=阿部章仁

(左から)小川絵梨子、石川慶、上村聡史