第二次世界大戦後の日本は、実質的にはアメリカ軍の単独占領であり、GHQ最高司令官マッカーサー指導の下、軍国主義を排除しました。五大改革指令や日本国憲法の制定など、戦後の日本の変化をみていきましょう。『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で有名予備校講師の山中裕典氏が、1920年から1930年代にかけての社会情勢について解説します。

戦後の民主化政策(1940年代後半)

約7年間にわたるGHQの日本占領の特色

連合国による占領は、実質的にはアメリカ軍の単独占領でした。

初期の占領政策は、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)の最高司令官マッカーサーが主導しましたが、日本の非軍事化民主化をめざす占領政策の根拠は、ポツダム宣言の「軍国主義の排除」「戦争犯罪人の処罰、民主主義的傾向の強化、自由と人権の尊重」などの内容にあり、ポツダム宣言を受諾した日本は、これらを実行する義務がありました。

そして、敗戦後も日本政府が残存したので、GHQは日本政府を利用する間接統治方式を採用しました

一方、戦争中に占領された沖縄小笠原は、アメリ軍による直接軍政が実施され、GHQによる間接統治から外れました。のちに日本が独立を達成したあとも、沖縄と小笠原はアメリカの施政権のもとに置かれ続けたのです。

GHQが軍国主義の排除を主導した

皇族の〔東久邇宮稔彦内閣〕が成立すると、降伏文書に調印し(この1945年9月2日第二次世界大戦の正式な終結日)、陸海軍の武装解除を進めました。一方、GHQは戦争責任の追及を始め、「平和に対する罪」を犯したとして、政府・軍部の戦争指導者をA級戦犯容疑者として逮捕していきました。

内閣は、GHQ治安維持法・特高の廃止や政治犯の釈放を求めた人権指令(1945.10)に対応できず総辞職し、もと外相の〔幣原喜重郎内閣〕が成立しました。早速、マッカーサーは幣原首相に対し、五大改革と憲法の自由主義化を指示しました(1945.10)。そして、GHQ軍国主義者の公職追放を指令すると(1946.1)、政界・財界・官界・言論界の指導者が職を追われました。

A級戦犯を対象とする極東国際軍事裁判所が設置され、東京裁判が開かれました(1946~48)。起訴された容疑者は全員有罪となり、もと首相の東条英機・広田弘毅らが死刑となります。一方、従来の戦争犯罪(捕虜・住民の虐待など)を犯したB・C級戦犯容疑者は、アジア各地の裁判所で裁かれました。

五大改革指令と民主化

「婦人参政権の付与」の実現

〔幣原内閣〕のもとで衆議院議員選挙法が改正され(1945.12)、20歳以上の男女が選挙権を持つことになりました。戦後初の総選挙では(1946.4)、大日本帝国憲法下の帝国議会衆議院に、女性議員39名が誕生しました。男女同権を定めた日本国憲法が公布・施行される前に、女性参政権が認められたのです。

労働組合の結成奨励」と労働基本権の確立が実現

労働組合(1945)で団結権・団体交渉権・争議権ストライキ権)が保障され、労働関係調整法(1946)で労働争議の解決方法が定められ、労働基準法(1947)で労働条件の最低基準が1日8時間と定められました(工場法は廃止)。さらに、労働省も設置されました。労働者の社会的地位が安定し、購買力が向上して国内市場が形成されれば、植民地獲得の侵略戦争は不要になります

「教育制度の自由主義的改革」の実現

GHQ軍国主義的な教員の追放を指示し、国定教科書の不適当箇所が「墨ぬり」され、戦前の道徳や皇国史観などが否定されて修身日本歴史地理の授業が一時禁止されました。

そして、教育基本法(1947)で日本国憲法の精神に基づく民主主義教育の理念が示されて、教育の機会均等・男女共学・義務教育9年が定められ、学校教育法(1947)で新学制(機会均等を実現する6・3・3・4の単線型学校制度)が定められました。

さらに、教育委員会法教育行政が地方分権化され、教育委員は地域住民の公選制となりました(のち自治体首長の指名による任命制に)。一方、天皇中心の明治憲法体制を支えてきた教育勅語は、国会決議により排除・失効が確認されました

「秘密警察などの廃止」(圧制的諸制度の撤廃)の実現

治安維持法や特高が廃止され(1945.10)、共産主義者などの政治犯が釈放されました。〔東久邇宮内閣〕が実行できなかった人権指令を〔幣原内閣〕が実行した形となりました。ただし言論の自由は制限され、「プレス=コード」によってGHQへの批判は許されず、マスコミに事前の検閲が行われました。

「経済機構の民主化」の財閥解体

財閥は、陸海軍と結んで大陸進出や南方進出に協力し、軍国主義を助長した側面がありましたGHQは日本が二度と戦争に訴えることのないよう工業生産力を抑制し、経済を弱体化させることを狙って財閥解体を進めました。

GHQが15財閥の資産凍結を指令したのち(1945.11)、持株会社整理委員会(1946)が持株会社保有の株式を譲渡されて一般に売却しました。これにより、株式所有による傘下企業への支配が無くなり、コンツェルンが解体しました。そして、独占禁止法(1947)で持株会社カルテル・トラストを禁止し、公正取引委員会を設置して監視させました。

さらに、過度経済力集中排除法(1947)で各業界を支配する巨大企業を分割することにして、325社を分割指定しました(銀行は分割の対象外)。しかし、占領政策の転換で、解体は不徹底となりました(分割は11社のみ、独占禁止法も緩和)。冷戦下でソ連との対決姿勢を強めたアメリカは、日本経済の弱体化を望まなくなったのです。

のちの高度経済成長期、解体されなかった旧財閥系の銀行を中心に、企業集団(三井・三菱・住友・第一勧銀・富士・三和)が形成されていきました。

「経済機構の民主化」の農地改革

寄生地主制下で高額の小作料を負担する小作農の貧困が、国内市場の狭さを生み、植民地獲得の侵略戦争につながりましたGHQは、地主が貸す小作地を開放して小作農に取得させ、自作農創出を狙って農地改革を進めました。

〔幣原内閣〕の第1次農地改革では、所有地に居住しない不在地主の小作地はすべて開放の対象となったものの、所有地に居住する在村地主の小作地は5町歩(1町歩は約1万㎡)を超えた部分しか開放されませんでした(5町歩までの部分は地主所有のまま)。また、土地譲渡は地主と小作農との協議で行われ、不徹底でした。

そこで、改革が不十分だとGHQは判断し、〔第1次吉田茂内閣〕が制定した自作農創設特別措置法などに基づき、第2次農地改革が実施されました。在村地主の小作地は1町歩北海道では4町歩)を超えた部分を開放の対象とし(1町歩までの部分しか地主は所有できない)、開放される面積を拡大しました。また、土地譲渡は国家が地主から強制買収して小作農へ売却する方法に改め、徹底しました。残った小作地も、小作料が現物納から金納になりました。

結果、小作地が全農地の約5割から約1割に減少し、小作農が激減する一方、地主の経済力や社会的地位が失われ、寄生地主制は解体されました。しかし、創出された自作農の多くは零細農家で、農業協同組合(農協)が各地に設立され農業経営を支援しました。また、山林は対象外で、山林地主は残りました。

日本国憲法の制定

マッカーサーによる憲法自由主義化の指示を受け(1945.10)、〔幣原内閣〕は憲法問題調査委員会(松本烝治委員長)を設置しました。しかし、委員会の改正試案は天皇の統治権や不可侵性を維持するなど明治憲法の原則のままだったため、マッカーサーGHQに改正案作成を指示しました(1946.2)。

当時発足直前だった極東委員会ワシントンにおかれた占領政策の最高機関)が国際世論を背景に天皇制廃止を求める可能性があり、マッカーサーにとっては憲法改正を急いで進める必要があったのです。

既に、幣原首相はマッカーサーとの会談で戦争放棄を憲法に入れる提案を行い、GHQは草案作成にあたって民間の憲法研究会が発表していた「憲法草案要綱」(主権在民制と立憲君主制を含む)も参照しましたGHQが提示したマッカーサー草案には、国民主権・天皇制の維持・平和主義が含まれました。

その後、マッカーサー草案を日本政府が和訳・修正して政府原案として公表し、〔第1次吉田内閣〕のもと明治憲法改正の手続きで政府原案の修正が行われ(天皇の発議と帝国議会での審議)、日本国憲法1946年11月3日明治天皇生誕の日)に公布され、1947年5月3日憲法記念日)に施行されました。

日本国憲法の三大原則とは

まず、国民主権主権在民)です。これと、天皇の「日本国民統合の象徴」(第1条)という規定とにより、形式的な三権分立だった明治憲法と比べ、司法・立法・行政の相互牽制が機能しました

そして、国民主権だからこそ、直接選挙に基づく立法府の国会(衆議院・参議院)は「国権の最高機関」(第41条)として、三権のうち突出した形になりました。また、明治憲法では貴族院・衆議院が対等でしたが、日本国憲法では衆議院の優越が定められました

次に、平和主義です。戦争放棄(第9条1項)と、そのための戦力不保持(第9条2項)により、日本が二度と戦争を起こさぬよう歯止めをかけたのです。

もう1つ、基本的人権の尊重です。日本国憲法は、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」(第11条)として国民に保障したのです。

日本国憲法に基づく民主的諸制度の整備

民法改正では、男女同権の家族制度が定められ、旧民法の戸主権が廃止されました。刑法改正では、法の下の平等に基づき、大逆罪・不敬罪(天皇・皇室への罪)や姦通罪(夫のある妻とその相手の男性の罪)が廃止されました。

地方自治法が制定され、自治体首長は公選制となり、リコール制・条例制定権なども定められました。さらに、警察の地方分権化を規定した警察法が制定されました(自治体警察を新設)。こうして、中央集権的な地方制度・警察制度の柱となっていた内務省は役割を終え、GHQの指示で解体されました

政党政治の復活と展開

大政翼賛会は解散し、戦前の政党が復活しました(1945)。自由主義・資本主義を唱える保守では、立憲政友会系の日本自由党鳩山一郎総裁)や、立憲民政党系の日本進歩党が結成されました。社会主義を唱える革新では、無産政党系の日本社会党片山哲書記長)が結成され、合法政党となった日本共産党が活動を再開しました。また、中道では日本協同党が結成されました。

〔幣原喜重郎内閣〕の戦後初の総選挙(男女同権)では日本自由党が第一党で、公職追放された鳩山一郎に代わり外相の吉田茂が総裁となりました。

〔第1次吉田茂内閣〕は日本自由党を与党の中心とする、戦後初の政党内閣です。新憲法に基づく最初の衆議院・参議院同日選挙(1947.4)では日本社会党が第一党になりました。〔片山哲内閣〕の与党は日本社会党民主党・国民協同党ですが、保守・中道との連立で社会主義政策は困難でした。〔芦田均内閣〕でも連立は維持されましたが(芦田均は民主党)、復興金融金庫の融資をめぐる汚職事件(昭和電工事件)で総辞職しました。

〔第2次吉田内閣〕では、野党だった民主自由党(もと日本自由党)が少数与党となりましたが、総選挙で民主自由党が単独過半数を獲得して政権は安定し、自由党(もと民主自由党)が与党の〔第3次吉田内閣〕でサンフランシスコ講和(1951)を実現しました

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)