日本企業の賃金が上がらないのはいったいなぜなのでしょうか。原因のひとつとして、労働者への人的投資が他の先進国に比べて少ないことが挙げられると、元IMF(国際通貨基金)エコノミスト東京都立大学経済経営学部教授の宮本弘曉氏はいいます。本記事では、同氏による著書『一人負けニッポンの勝機 世界インフレと日本の未来』(ウェッジ社)から、日本における人的投資の現状について解説します。

どうすれば賃金を上げることができるのか?

賃上げは経営判断であり、その基本は生産性と経済の見通しです。賃金を上げるためには、それだけの利益を確保しなくてはいけません。これは、生産性を高めることにほかなりません。

生産性とは、付加価値を労働投入量で割ったものです。分子である付加価値を変えずに、分母である労働投入量を減らすことで、つまり、労働投入量を効率的にすることで生産性を高めることは可能ですが、同時に、分子である付加価値を高めることが重要です。

近年、労働生産性の上昇率は停滞中

生産性を向上させるためには、人的資本を高め、デジタル化など資本へ投資をすることが重要です。

労働生産性は、労働の質、資本装備率、そして全要素生産性(TFP)という3つの要素によって決まります。労働生産性の分子である付加価値を生み出すには、機械や設備などの「資本」や、それを使いこなす「労働」といった生産要素が必要となります。また、生産技術や経営効率、組織運営効率なども付加価値に影響を与えるとされ、これら生産要素以外で付加価値に寄与するものをTFPと呼びます。

一橋大学の深尾京司教授と牧野達治氏による研究によれば、近年、労働生産性の上昇率は停滞しています。その理由として、労働の質、資本装備率、TFPのすべての要素が低迷していることが挙げられます。つまり、労働生産性の3つの要因が揃って停滞しているということです。しかし、これは逆に、各要素を改善することで労働生産性を高める可能性があるということでもあります。

ここでは、まず労働の質について見ていきましょう。

企業は、従業員のスキルや知識を向上させるために、職場内外で様々な教育・訓練を実施しています。職場内で業務を通じて行われる訓練はOJT(On-the-JobTraining)、職場の外で行われる訓練はOFF‐JT(Off-the-Job Training)と呼ばれます。

かつて、日本の企業は従業員の能力向上に力を入れ、労働者の生産性を高めることで経済成長を牽引していました。しかし、バブル経済崩壊後の経済の低迷が続くなか、そうしたモデルは崩れ、企業による従業員への教育投資は減少傾向にあります。

日本の企業が支出する教育訓練費の推移を見ると、ピークバブル経済崩壊直後の1991年で、その後は徐々に減少し、2021年にはピーク時の4割にまで落ち込んでいます。

企業の教育訓練費への支出は、企業規模によって大きな違いがあります。2021年では、規模が1000人以上の企業の教育訓練費は、30〜99人の企業の教育訓練費の約1.9倍となっています。つまり、勤務先の規模によって受けられる人的投資が大きく変わってきます。

※ 深尾京司/牧野達治(2021)「賃金長期停滞の背景 製造業・公的部門の低迷響く」日本経済新聞2021年12月6日朝刊。

日本の労働者の約4割を占める非正規雇用者

また、雇用形態によっても、企業が従業員に対して行う人的投資の取り組みに差が存在します。

厚生労働省「能力開発基本調査」によると、正社員以外の従業員に対して、計画的なOJTとOFF‐JTを実施している事業所の割合は、正社員に対するものの約半分にとどまっています。

図表1をご覧ください。OJTの受講機会については、正規雇用者は26%程度で推移している一方、非正規雇用者は若干の低下傾向が見られます。2021年にOJTを受けた割合は、正規雇用者が25.6%、非正規雇用者が22.1%で、その差は僅かです。

OFF‐JTを受けた割合については、コロナ禍で正規雇用者、非正規雇用者ともに減少していますが、どの年も非正規雇用者の割合は正規雇用者の半分近くとなっています。

正社員と非正規社員の間で受けられる人的投資に差があることは、個人にとっても経済全体にとっても大きな問題です。

個人にとっては、非正規社員が教育訓練を受ける機会が少ないことで、一度非正規社員になるとスキル獲得や能力向上の機会が限られ、その結果、正社員への転換が難しくなります。また、スキルや能力を向上できなければ賃金も上がりにくく、将来、正社員との賃金格差がさらに広がる可能性もあります。

経済全体としては、平均的な労働者の質が低下することが懸念されます。この30年間で日本では非正規社員が大きく増加し、今や雇用者の約4割を占めています。人的投資を受ける機会が少ない非正規社員の増加は、経済全体での人的資本の蓄積が低下し、労働の質向上が停滞する大きな原因になっていると考えられます。

日本の人的投資を他の先進国と比較してみましょう。図表2は、GDPに占める企業の能力開発費の割合を国際比較したものです。

ここで扱っている人的投資はOFF‐JTに関するものであり、OJTは含まれていないことに注意が必要ですが、日本のGDPに占める企業の能力開発費の割合は、アメリカ、フランスドイツイタリアイギリスと比較して、著しく低い水準にとどまっていることがわかります。

また、日本のGDPに占める企業の能力開発費の割合は長期的に低下傾向にありますが、他の先進国では必ずしもそうではありません。1995〜1999年2010〜2014年の数字を比較すると、ドイツイギリスではその割合が低下していますが、アメリカ、フランスイタリアでは割合が上昇しています。

人材にお金をかけないと、スキルが伸びません。これは企業、そして国の経済成長にとってマイナスの影響を与えます。お金をしっかりと人にかけられるような環境を作ることが重要です。

宮本 弘曉

東京都立大学経済経営学部

教授

※画像はイメージです/PIXTA