(町田 明広:歴史学者)

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◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは①
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは②
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは③
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは④

幕長戦争・将軍空位期の薩摩藩の動向

  慶応2年(1866)6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃が始まり、ここに第2次長州征伐(幕長戦争)が開戦した。幕府は散兵戦術に長け、薩摩藩の名義借りで購入した近代兵器を使いこなした長州軍に大敗したが、追い打ちをかけるように、7月20日に将軍家茂が大坂城で急逝したのだ。

 同日、島津久光・茂久父子は征長反対の建白書を提出し、寛大の詔を下して征長の兵を解き、その後に天下の公議を尽くして大いに政体を更新し、中興の功業を遂げるための政治変革を要求した。徳川宗家を継承した徳川慶喜の尽力によって、その建白は朝議では退けられ、孝明天皇によって戦争の継続が沙汰された。

 しかし、慶喜は九州方面での敗報が届くと掌を反し、8月20日に長州征討の止戦の勅命を得て、同時に諸大名を召集し天下公論で国事を決める姿勢を示した。この慶喜の対応は、会津藩の離反を招き、一会桑勢力はここで分裂の危機に瀕した。

 慶喜は徳川宗家の家督を相続したが、実は手に入れたい将軍職は固辞した。ここで、大久保利通を中心とする在京の薩摩藩要路は諸侯上洛の朝命を利用して、この将軍空位期に将軍職を廃止し、諸侯会議を実現する好機と捉えたのだ。しかし、久光に上洛を要請したものの、時期尚早として見送りとなり、その代わりに藩政改革にあたっていた小松帯刀西郷隆盛を伴って、10月25日に率兵上京したのだ。

大胆な小松の戦略転換

 孝明天皇から厚い信頼を得ていた慶喜は、着々と準備を進め、慶応2年12月5日、在京諸侯の推戴を得たとして将軍に就任した。ここでも、それを阻止しようとした薩摩藩は慶喜に敗北した。政局運営を安定させたい慶喜は方針転換を計り、有力諸侯との連携を模索した。そこで小松は、方針を変えて当面は朝廷工作を控え、直接幕府と交渉することを決断したのだ。

 12月25日、慶喜の最大の庇護者である孝明天皇天然痘で薨去された。慶喜は諸侯との連携をますます意識せざるを得ず、股肱の臣である原市之進を小松の許にしばしば派遣して、明治天皇の践祚を機に行われた大赦や、五卿の京都復帰などについて意見調整をさせた。

 慶喜サイドからのアプローチによって、慶喜が西国雄藩と連携をして政局運営を図るのではないかとの希望を薩摩藩側に抱かせた。折しも、長州藩処分問題に加え、兵庫開港問題が切迫していたため、小松はこの機会を逃さず、諸侯会議を至急開催して外交権を幕府から朝廷に移管することによって、なんとか廃幕に持ち込もうと画策したのだ。

慶喜の裏切りと四侯会議の開催

 慶応3年(1867)2月6・7日、慶喜は仏公使ロッシュと会見し、連携して薩長にあたることを約束して兵庫開港を明言した。24日には、諸藩に対してこの問題を諮問し、3月10日までに回答を求め、かつ上京を命じた。しかし、慶喜は3月5日に独断で開港勅許を奏請し、22日にも重ねて奏請したものの、朝議はいずれも拒否したのだ。

 慶喜は、3月28日に英仏公使・蘭総領事、4月1日に米公使を大坂城で正式に引見し、条約履行を明言した。これは明らかに、諸侯をないがしろにした裏切り行為であり、薩摩藩はこの段階で慶喜を見限っており、四侯会議はこうした背景の下で開催されることになった。

 西郷隆盛は慶応3年2月1日に帰藩し、久光に上京を促して賛同を獲得した。久光は700人の藩兵を率いて、4月12日に入京した。遅れて、松平春嶽伊達宗城山内容堂も上京し、ここに四侯会議が開かれた。

 しかし、会議はわずか3回のみで、二条城で慶喜に謁見したのも5月14・19・21日の3日間であり、容堂に至っては14日のみ出席であった。容堂は相変わらず、肝心なところでこうした不誠実な態度を示した。小松が意図したものとはほど遠く、これ以降、慶喜支持に回る春嶽・容堂とあくまでも慶喜排除を志向する久光・宗城は対立を深めたのだ。

四侯会議の挫折と武力発動の方針

 ところで、四侯の方針は毛利父子の官位復旧、藩主退隠・世子家督相続、削地取消という寛典処分の勅命の要求であった。また、兵庫開港は認めるものの、幕府の奏請に勅許を与えるのではなく、天皇が勅命によって幕府に命じる形式を取り、外交権が朝廷にあることを内外に認めさせるものであった。

 なお、長州処分・兵庫開港の審議の順番については、幕府の反省が前提との認識から、四侯サイドは長州問題を先議とするとの方針であった。しかし、どちらを先に勅許の奏請対象にするのかについて、慶喜と久光が激しく対立して論争したため、春嶽の提案で2件を同時奏請することになったのだ。

 慶応3年5月23日午後8時から丸1日に及んだこれらを議する朝議は、今後の政局を決定づけた重要会議であった。四侯からは当初、松平春嶽のみ参加したが、深夜零時ころに伊達宗城が参内し、久光と容堂は所労を理由に欠席した。24日午前10時ころ、摂政二条斉敬の強い意向により、小松を呼んで久光の参加を促したが不発におわった。

 復命した小松が留められ、久光名代として朝議に陪席し、紛糾を極めたものの慶喜の粘りに屈した形で、長州寛典処分・兵庫開港を同時に勅許した。長州藩の具体的な処分内容は曖昧であり、しかも、両件とも四侯が同意であると認定されたのだ。

 この結果は、四侯の惨敗であり、朝議の国是を定める機関としての機能不全が露呈した。しかも、二条摂政に政治家としての資質が欠如し、慶喜の政略・器量が抜群で朝議を主導し続ける可能性が大であるとの印象を与えた。特に久光は、大いに不満であり、小松も慶喜を排除した上で、朝政改革を断行すべきと志向し始めた。長州藩と共闘による、武力発動も辞さないとの方針が浮上したのだ。

薩摩藩の武力発動の決定とその挫折

 四侯会議後、久光と小松は武力発動を視野にいれ、多数の藩兵を上京させた上で、その武力を圧力装置として慶喜に将軍辞職を迫り、朝廷に慶喜辞職の勅命を要求することを企図した。

 しかし、一歩間違えば幕府との戦争は避けられず、武力衝突に向けた対策も同時に求められた。無血による王政復古を志向しながら、一方で、戦争も辞さないという姿勢である。久光は藩邸内に潜入中の長州藩士山県有朋らにその意を伝達し、山県は、薩摩藩は武力討幕を決意したと判断したのだ。

 久光は6月18日に藩主茂久に書簡を発し、まずは4軍艦をもって1個大隊を派兵し、派兵船が戻り次第、迅速に堂々と出馬するようにと、茂久に率兵上京を要請した。茂久に出馬を命じ、一方では派兵後としており曖昧な指示となった。

 久光や小松を始めとする在京要路にとって、一気に武力討幕といった思惑まではなく、あくまでも兵力を増した上で、圧力として使うことを主眼とした。いずれにしろ、久光は幕府との対決姿勢の旗幟を鮮明にしたのだ。しかし、藩主父子の意に反して、薩摩藩内には率兵上京への反対意見が渦巻いて進展しなかった。

薩土盟約を主導した小松

 この閉塞状態の中で、6月20日に土佐藩参政・後藤象二郎が小松を訪ね、大政奉還建白(将軍辞職・王政復古・議会政治を含む)を打診した。薩摩藩にとっては、渡りに船の提案であり、久光と小松はもちろん同意した。22日、後藤・福岡孝弟・寺村左膳らと小松・西郷・大久保が会談し、薩土盟約を策定した。久光も了承して、薩摩藩の公式な盟約となったのだ。薩摩藩は大政奉還が実現するとは思いもよらなかったが、土佐藩の武力発動に期待し、将軍職辞職の建白に期待したのだ。

 なお、薩土盟約締結時、坂本龍馬中岡慎太郎が同席した。龍馬が薩摩藩関係者であると同時に、「大条理」プランの主唱者であった可能性を指摘したい。薩土盟約は、龍馬がお膳立てした可能性もあり、「小松・木戸覚書」(薩長同盟)よりも龍馬の関わり、その重要性は計り知れないと考えたい。

 薩摩藩にとって、土佐藩の申し出はまさに渡りに船で、薩長土の3藩兵による圧力装置の構築も期待した。まさに、薩摩藩の兵力不足を補い、かつ、幕府に近い土佐藩を取り込むという大きなメリットをもたらすものであった。圧力装置を確保しつつ、大政奉還路線としての土佐藩、武力討幕路線としての長州藩、どっちらに転んでも良きパートナーを獲得したのだ。薩摩藩の二面外交のスタートであるが、役割分担として、前者は小松、後者は西郷・大久保であり、久光の下で小松・西郷・大久保は一枚岩で動いていた。

 次回は、薩土盟約が破棄された後の薩摩藩・小松帯刀の動向と、大政奉還において、いかに小松が活躍したのかを紐解いてみたい。

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