マンチェスター・シティを率いて史上初のイングランドプレミアリーグ4連覇を目指すジョゼップ・グアルディオラ監督。53歳の名将は果たしてどのように誕生したのだろうか?

 現役時代にバルセロナの中心選手としてヨーロッパの頂点に立ったグアルディオラは、スパイクを脱ぐと指導者の道に進み、2007年に古巣バルセロナのBチームの監督に就任した。そして1年後にトップチームの指揮官に大抜擢され、そこから数々の栄光を築くことになるのだが、彼が監督に任命される経緯を『BBC』のドキュメンタリー番組で特集しているので紹介しよう。

■2008年のバルセロナ

 当時のバルセロナはフランク・ライカールト監督の元で苦しんでいた。2003年に就任したオランダ指揮官は2006年にラ・リーガ連覇を果たしたほか、チャンピオンズリーグではアーセナルを退けて14年振りにクラブを欧州制覇に導いてみせた。しかし、翌年にリーグ制覇を逃すと、2007-08シーズンも宿敵レアル・マドリードに後れを取ることに。シーズン終盤の2008年5月、レアル・マドリードの本拠地に乗り込んだ3位バルセロナは、既に優勝を決めていたレアル・マドリードの選手たちを拍手でピッチに招き入れる、いわゆるガード・オブ・オナーという屈辱を味わった。結局、その試合もラウールルート・ファン・ニステルローイなどにゴールを許して1-4の大敗。レアル・マドリードのファンに「ラポルタバルセロナの会長)、どうか残ってくれ!」と皮肉を歌われる始末。そして試合の24時間後、クラブはライカールト監督のシーズン終了後の退任を発表したのである。

 当時のバルサピッチ外の問題も抱えていたという。エースのロナウジーニョは怪我に悩まされただけでなく、パーティ三昧の私生活をマスコミから批判されており、抜本的なチームの立て直しが求められていた。最大の焦点は、チーム再建の大役を誰に任せるかであった。

 有力視されたのはジョゼ・モウリーニョである。バルセロナで通訳やアシスタントコーチとして働いた経験を持つ名将は、ポルトチャンピオンズリーグを制してチェルシーでもリーグ連覇を達成するなど結果を残していた。また、モウリーニョは規律を重んじる現実主義者として知られており、当時のバルセロナには適任とも見られていた。だがバルセロナは、より冒険的な決断を下すことに。その人選が、のちにバルセロナを、そしてサッカー界をも変えることになるのだった。

■Bチームのペップ

 ペップバルセロナの礎を築いたヨハン・クライフサッカー哲学の申し子だ。19歳のときにクライフによってバルサのトップチームに引き上げられたペップは、オランダの英雄が理想に掲げるサッカーを体現する存在だった。スペイン人記者のル・マルティンは『BBC』にこう証言している。「ペップは、ヨハン・クライフが望む全てを理解していた。クライフには2人の息子がいたのさ。一人は実子のジョルディ・クライフ。もう一人がサッカーにおける息子、ペップだ」

 ジョルディ・クライフも2016年に他界した偉大な父について「(引退する前から)ペップは何度も父と連絡を取り合っていた。父は誰が優秀な指導者になるか分かるのさ」と明かしたことがある。そしてペップは指導者の道に進んだ。引退後に「自分は元選手だが、監督としてゼロからスタートする」と断言してバルセロナのBチームの監督に就いた。当時のBチームは本当の意味でゼロからのスタートだった。前年の2006-07シーズンに3部リーグから降格し、34年ぶりに4部リーグで戦うことになっていたのだ。

 そんなチームを任されたペップは、すぐに結果を残せずに悩んだという。最初の3試合で1勝しかできず、ピッチコンディションが万全と言えない4部リーグで「ポゼッションを重視した自分の信じるサッカーを続けるべきなのか?」と自問自答した。「あまりにもピッチが狭いのでスタイルを変えようか考えた」とグアルディオラは当時を振り返る。「2日間ほど迷ったあとで決断した。もし小さいピッチの上でも魅力的なサッカーで勝てるなら、もっと良いコンディションで質の高い選手が揃えば、さらに結果を出せるってね」

 他のスタイルも検討したそうだが、ペップは「これが我々のやり方だ」と選手たちに自分のサッカーを伝えたという。「重要な分岐点だった。私は経験も乏しく、まだ大物選手を指導したことのない37歳だった。自分の手腕を証明する必要があったのさ」と振り返っている。そして新米の指揮官は、セルヒオ・ブスケツやペドロ、チアゴ・アルカンタラといった、のちにトップチームで活躍する若い才能に戦術やアイデアを事細かに落とし込んでいった。そして当時から、今と変わらない「プロの仕事」をしたそうだ。

 映像を使って敵チームを細部にわたって分析するなど、当時の4部リーグでは誰もやっていなかったことを取り入れた。そして「門限23時」や「罰金ルール」など選手たちの規律も徹底した。当時のバルサのスポーツダイレクターで、今はマンチェスター・シティの幹部であるチキ・ベギリスタインも完璧を追求するグアルディオラに驚かされたそうだ。「信じられなかった。ペップはまるでバルサのトップチームを率いているかのように4部リーグを戦ったのさ。食生活、シェフ、移動、映像分析など。『いつかトップチームを率いるんだ』という意気込みを感じたよ。」

 するとペップが率いるBチームは結果を残し始め、1年で3部リーグ昇格を勝ち取るのだった。戦術面だけでなく、ペップは人心掌握術にも長けており、3連勝したらランチを全員に奢ると約束し、結局5度もランチを奢るはめになったという。そんなペップの手腕をずっと見守っていたのが、バルセロナで最も発言力を持つクライフだった。クライフは奥さんと頻繁にBチームを見にきたそうだが、彼の視線の先は選手ではなくペップだったという。

 また、ペップは一流選手が揃うトップチームをも驚かせたという。Aチームとの練習試合でペップのBチームは華麗なパスサッカーを披露したのである。当時トップチームに所属していた元アイスランド代表FWエイドゥル・グジョンセンも「あんなに走らされたのは初めてだ」と振り返る。「本気でプレーしていなかった選手もいるが、私たちはBチームの選手に近寄ることさえできなかったのさ。『なぜ、必ずフリーの選手がいるんだ?』と感じたのを覚えているよ。」

 そして迎えた2008年のシーズン終盤、監督交代に踏み切ったバルセロナサッカー史における最大の決断を下すことになる。後任に据えるのは、実績十分のモウリーニョか? それとも1年目でBチームを昇格に導き、トップチームとの練習試合でも手腕を発揮した“クライフのお墨付き”の新米監督か?

ロナウジーニョの夜遊びをどう止めるか? 我々には司令官が必要だったのさ」と、当時バルセロナの役員だったシャビエル・サラ=イ=マルティン氏は『BBC』の番組に説明する。「当時、世界最高の司令官はモウリーニョのはずだった。だが、彼はバルセロナのDNAに合わなかった。ジョアン・ラポルタ会長も『モウリーニョは我々のスタイルではない。カウンター重視の守備的な監督だ。バルセロナ流ではない』と話した。それでも多くの役員はモウリーニョを支持していた。そこでラポルタ会長はクライフに相談した。『ペップはトップチームを率いる準備ができているのか?』と。クライフYesと答えた。そしてクライフYesと言えば、それはYesなのさ」

 こうしてライカールトの後任には新米監督が選ばれ、サッカー界を席巻することになるペップ・グアルディオラ政権が誕生したのだ・・・。
(記事/Footmedia)

マンチェスター・シティを率いるグアルディオラ監督 [写真]=Getty Images