アイナ・ジ・エンドの新曲『宝者』のミュージックビデオが議論を呼んでいます。




 手話をモチーフにした振り付けに、当事者であるろう者たちから「手話文化の盗用だ」とか「手話をおもちゃにしないで」と怒りの声があがっているのです。


◆「振り付けと同じ感覚でほぼほぼダンス」TikTokで手話歌が流行も
 実際、曲中でアイナ・ジ・エンドが披露する手の動きには明確な意味がなく、そのため“手話風の”振り付けになってしまっている。それが、文化の盗用であり、手話を軽んじていると言われている理由なのですね。


 アイナ・ジ・エンドが手話を取り入れた背景には、TikTokなどで手話歌と呼ばれる動画がバズっているトレンドが影響しています。アイナも自身のラジオ番組『SCHOOL OF LOCK!アイナLOCKS!』(TOKYO FM 2月27日放送回)で次のように語っていました。
<手話はね、振り付けと同じ感覚でほぼほぼダンスでしたね。その中でも、“少し”っていう手話が1番好きだなって思いました。なんだか奥ゆかしさがあって。右手をちょっと“くの字”って言いますか、くの字も丸めて左肩に近づけるんだけど……“少し”。なんか、きゅってなるんだよね、肩が少しすくむ感覚で。手話って奥ゆかしいな~って思いました。


 今って、みんなTikTokで踊るじゃないですか。あの画面の中で踊る感覚。なんだかちょっと奥ゆかしくて、可愛らしくて。そんな中でもちゃんと届けようと思うと、表情とかが勝手についてくるんだよね。それが楽しかった~。>


「奥ゆかしい」、「きゅってなる」、「可愛らしくて」、「楽しかった~」という言葉からは、彼女が手話をレクリエーションと勘違いしている様子がうかがえます。手話がなければ暮らしていけない当事者からすると、到底受け入れられない発言でしょう。


◆当時者から違和感「手話歌はろう者を蚊帳の外に置き去り」
 NPO法人「インフォメーションギャップバスター」の代表で、自身もろう者である伊藤芳浩氏も、アイナの認識が象徴する手話歌への違和感をこう指摘しています。


<多い意見としては「手話がパフォーマンス化してしまっている」ということです。そしてもう1つが「『手話歌』に使われている手話の意味が分からない」ということですね。いずれにせよ、手話歌はろう者を蚊帳の外に置き去りにしているのが現状です。普段から手話を使って生活している人からすると、「手話を言語としてではなく、振り付けのように扱い、聴者が楽しむためだけのために使われている」と、感じるからではないでしょうか。>
(『なぜ手話歌にモヤモヤする? 手話文化の前提を知るため、ろう者に聞いた』日本財団ジャーナル2023年12月28日掲載)


 そう考えると、アイナのケースも、彼女が手話に対して好意的であるがために起きてしまった「文化の盗用」だと言えそうです。


 しかしながら、過去の似たケースと比較すると、ただ不運だったと同情できない構図も浮かんできます。いくつか振り返ってみましょう。


◆『碧いうさぎ』『ロード~第二章』と違う点
 まず、同じくミュージックビデオに手話を取り入れた作品で、『碧いうさぎ』(酒井法子)や『ロード~第二章』(THE虎舞竜)がありました。



酒井法子碧いうさぎ』株式会社JVC・ビクターエンタテインメント



碧いうさぎ』は、酒井法子が聴覚障害を持つ女性を演じたドラマ『星の金貨』の主題歌で、『ロード~第二章』は、手話講習を受けたバンドメンバーがいたという経緯があり、どちらも手話そのものに意味やメッセージも込められていました。


 賛否はあるかもしれませんが、少なくともファッションとして手話を用いていない点で、『宝者』とは異なります。


◆障がいを持つ英国ロック歌手による問題提起
 次に、モチーフとして障がいとどのように向き合うか。イギリスのロック歌手、イアン・デューリー(1942-2000)に『Spasticus Autisticus』という曲があります。これは、自身も小児麻痺を患い左半身の自由を失ったデューリーが、健常者に向けて“俺みたいにならなくてよかったとせいぜい神様に感謝しな”と毒づく内容の歌です。


 曲が発表された1981年は、国連が国際障害者年に制定した年。デューリーは障がい者に対して施しを与えるような社会の空気に抗議したのです。



Ian Dury & The Blockheads 『Warts ‘n’ Audience』 Edsel



 しかし、リスナーに不快感を与える表現があるとの理由で、イギリスの放送局は曲を放送禁止リストに入れました。まさに当事者のデューリーだからこその核心をついた表現が、危険だと認定されたわけですね。


 ところが、2012年に状況は一変します。ロンドンパラリンピックの開会式で「Spasticus Autisticus」を障がい者のグループが歌ったのです。臭いものに蓋(ふた)をしてきた社会に対するデューリーの問題提起が目に見える形で結実した瞬間でした。


 同情でも憐れみでもなければ、押し売りの博愛主義でもない。健常者の障がいに向けるまなざしを厳しく問う一曲だと言えるでしょう。アイナの手話とは対極の世界です。


◆「文化の盗用」以前のレベルの問題




 こうしてみると、『宝者』の手話と、アイナのコメントは、文化の盗用だとか、障がい者を蚊帳の外に置いているという批判以前の問題なのだと思います。


 意味のない手話をさせられているにもかかわらず「ちゃんと届けようと思うと、表情とかが勝手についてくるんだよね」と言ってしまうことは、自分で自分のしていることを把握できていないと受け取られても仕方ないからです。文章として成立しないただの手振りで、一体何を「ちゃんと届けようと」思えるのでしょうか?


 これでは作詞と作曲を手掛けた『宝者』自体にも彼女がどれだけの責任を負っているのかがわからなくなってしまいます。


 そのようなアーティストを信用することが出来るでしょうか?


<文/石黒隆之>


【石黒隆之】音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4



(画像:SCHOOL OF LOCK! X投稿より)