現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追った『92歳、広岡達朗の正体』が発売前から注目を集めている。

巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。

(以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

◆〜西武ライオンズ編①〜
近鉄、阪神からの監督就任要請

七九年シーズン途中でヤクルトを退団した広岡は、再び評論家活動に戻った。 しかし広島のコーチを辞めたときとは訳が違う。あのヤクルトを初の日本一に輝かせたという勲章により、球界内外から「次はどこの監督になるのか?」と去就が注目された。史上最弱チームを初の日本一に導いたという実績が、広岡達朗の格を存分に上げたのだ。

「理想の野球を展開するには、チーム作りに五年間必要だ」

これが広岡の持論だ。そして、選手たちに率先垂範できる年齢として、ユニフォームに袖を通すのは五〇歳が限界点だと決めていた。ヤクルトの監督を辞めたのが四七歳。次が野球人生の集大成になるつもりで、広岡は慎重に時を待った。

八一年のシーズン終盤、近鉄から監督就任の要請が来た。

「当時近鉄の監督だった西本(幸雄)さんが推薦してくれた。西本さんは凄い。本当に一生懸命やった人で、ティーバッティングでも自らがボールを投げる。素晴らしい人なんだが、ひとつ欠点をあげるとすれば、他人の言うことを聞かない。全部自分でやろうとする。それが日本一になれなかった原因。他人の意見を採用するかしないかは自分で決めるにしても、まず他人の話に耳を傾けるべき。それでもやっぱり西本さんは凄かった」

シニカルに聞こえるかもしれないが、これは広岡流の最大級のベタ誉めである。西本幸雄は、川上哲治と双璧と言えるほどの球界の重鎮であり、関西球界のドンでもあった。監督生活は二〇年間に及び、大毎、阪急、近鉄の三球団で八回もリーグ優勝を成し遂げたものの、一度も日本一になっていない。それゆえ〝悲運の名将〟とも呼ばれた。熱血漢で指導力には長けており、選手には容赦なく手も出す。だが、一度グラウンドを離れると非常に面倒見が良く、教え子で西本の悪口を言う者がいなかったほど選手たちに慕われていた名将だった。

広岡は西本の育成能力の高さに心底舌を巻いており、プロ野球史上最高の監督とまで評価している。言うなれば、自分と同じように弱小球団を率いて、発展途上の選手たちを育てながら何度も優勝させた手腕への敬意でもある。

広岡は、近鉄監督への就任要請に即答しなかった。そうこうしているうちに阪神からも話が舞い込み、近鉄からの就任要請を丁重に断った。

「八一年の秋口、阪神球団社長の小津(正次郎)さんから連絡があった。早速会うと『まずは三年契約でどうですか』と就任を要請されたんだけど、あの頃の阪神は五年契約じゃないと選手が言うことを聞かないだろうと思った。三年契約だと選手たちが『どうせ三年経ったら辞めるし、どっかでヘマすれば途中で辞めてしまうだろう』とはなから監督をバカにしてしまう。

小津さんは『俺を信用したまえ』と言ったけど、『まだ信用できません。小津さん、三年契約だと選手たちの操縦法が難しい。五年契約ではどうですか? 三年で必ずものにしますから』と返した。結局、小津さんが首を縦に振らなかったから断った。監督をやるなら初めから五年契約でやらないと、本当の意味の改革ができない。正直、阪神に行ってもいいかなとは思っていた」

広岡が阪神の監督を引き受けていたら……。 伝統の一戦と呼ばれる対巨人戦で、阪神を率いる広岡が恩讐の巨人相手に立ち向かう図式はさぞ盛り上がり、歴史が大きく変わったかもしれない。

◆“球界の寝業師” 根本陸夫の謀略

日本プロ野球界で実質的なGMとして機能し成功を収めた先例は、やはり八〇年代の西武で〝管理部長〟として辣腕を振るった根本陸夫だろう。GMとは、チーム編成の権限を持つ者であり、ドラフト戦略やトレード、FAや外国人補強等、いかにしてチームを強くするかを担うポジションである。試合の采配や球団経営には携わらない。

八一年秋から西武の〝管理部長〟という要職に就いた根本は、近鉄、阪神の監督就任を断った広岡を監督に招聘するためすぐさま声をかけた。根本は、広島監督時代に広岡をコーチとして呼び寄せた男だ。根本には指導者としての資質はなかったが、人脈作りにめっぽう長けていた。

人脈に必要なのは情報とスピードだ。一歩出遅れたために、すんでのところでチャンスを取り逃がすことなど人生には山ほどある。百戦錬磨の根本は、情報収集とスピード感こそ肝だと心得ており、広岡が近鉄と阪神の監督就任を断ったという話が球界内を駆け巡る前にキャッチし、すぐに広岡へと接触を図ったのだ。

「阪神の監督を断ってすぐに、根本(陸夫)さんから西武の監督にならないかと誘いを受けた。最初は長嶋に断られ、次の上田(利治)はやるって言っていたはずなのに土壇場で断られたという。オーナーの堤さんが『広岡がいるじゃないか』と言ったから、しょうがなしに俺のところへ話が来ただけ」

広岡はまず、親会社である西武グループ関連の書物を全部読み漁った。名声欲しさや契約条件では絶対に釣られない広岡は、西武ライオンズが新興球団ゆえに親会社の理念や経営状態がどうなのかをしっかりリサーチした。そして、西武の監督を引き受けた。

八〇〜九〇年代の西武黄金時代を作り上げたのは、ひとえに現場で選手を成長させた広岡の手腕と、成長しうる逸材を集めてきた根本の尽力によるものだ。この二人三脚がすべてであり、どちらが欠けても黄金期は訪れなかっただろう。

「根本さんは一見、人から頼まれたら嫌と言えない良い男に見える。任俠めいた雰囲気を持っていて、男っぷりも良い。西武では金を使うだけ使ってダイエーに行った。ダイエー でも使うだけ使って亡くなったが、それによって王が浮かばれた。根本さんはそういう男」

球界に蔓延る面倒な案件を治めるのも根本が得意とする仕事で、表には出ない反社会勢力絡みの案件も平気で片付ける。誰も逆らえないアンタッチャブルな存在だった根本に唯一対抗できたのが広岡だ。
 
満を持しての三年ぶりの球界復帰。初めての春季キャンプ前に、こんなことがあった。強面の根本が小難しい顔をしながら広岡に言う。

「うちはこういうのに長けている。両サイドからキャッチャーのサインを映し出すからプ ラスにせえ」

客席にビデオ班を置いて、スタンドから相手のサインを盗むやり口だ。広岡は呆れた。

「根本さん、キャンプインチキするためにあるんじゃないですよ」
「わかってる。とにかくキャンプで想定してやらせろ!」
「そんなことしなくても勝てばいいんでしょ。やらなくても勝ちますから」

断固拒否し、サイン盗みといった卑劣な行為をしなくても絶対に勝ってやると誓った。
(次回に続く)

※西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」が3月16日(土)にベルーナドームにて開催予定。

【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

―[92歳、広岡達朗の正体]―


『92歳、広岡達朗の正体』が3月14日に発売