1991年湾岸戦争の戦場でアイオワ級戦艦の「ミズーリ」が艦砲射撃を行いました。第二次世界大戦で運用された艦艇が、なぜこの時代に再び姿を現したのでしょうか。

第二次大戦の終わりを告げた戦艦「その後」

アメリカ海軍アイオワ級戦艦ミズーリ」といえば、日本では1945年9月2日に、日本政府の降伏文書調印式の舞台になった艦として知られています。創作物の世界では、映画『沈黙の戦艦』で世界最強のコックを乗せたり、『バトルシップ』では海上自衛隊護衛艦と共に地球外生命体と戦うなど、なにかと話題に事欠かない艦です。

そして、実は世界で最後に「実戦での艦砲射撃」を行った戦艦でもあります。しかも、第二次世界大戦から40年以上後の1991年湾岸戦争のときでした。

アイオワ級は、旧日本軍が計画していた新型戦艦に対抗できる火力を持ちつつ、速力に優れ、空母艦隊や揚陸艦隊などの艦艇と一緒に行動できる戦艦として、大戦中の1943年から1944年にかけて「アイオワ」「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン」の4隻が就役しました。アメリカではこのアイオワ級が、「戦艦」という艦種においては最後に建造された艦艇です。

終戦後、時代の変化により、戦艦同士がぶつかりあう艦隊決戦の可能性はほぼなくなりました。戦艦は維持するためのコストもかなりかかることから、各国では戦後直後から続々と退役していました。

しかし、依然として地上への艦砲射撃の有効性は評価を受けていました。航空機や小型艦艇よりも、火力がある大口径な艦砲で、上陸地点や沿岸の敵拠点に対して圧倒的な制圧射撃が行えるからです。そのためアイオワ級は、アメリカ海軍で唯一の戦艦として維持されていくこととなります。

1950年6月から1953年7月まで行われた朝鮮戦争では、1950年の9月頃から「ミズーリ」が展開を開始し、仁川にアメリカを中核とした国連軍が上陸した後は、その支援のため何度か沿岸の北朝鮮軍を標的とした艦砲射撃を行いました。

しかし、朝鮮戦争休戦後の1955年2月26日に同艦は退役。ほかの姉妹艦も1957年頃までには、同じ状態となります。アメリカとはいえ、さすがに常時アイオワ級4隻を維持するのは困難で、1960年代末に「ニュージャージー」が再就役したのを除けば、「ミズーリ」を含めた3隻は、長い期間を「モスボール」という運用可能な最低限の整備を施された予備役の状態で過ごします。

湾岸戦争で再び戦場へ! そして戦艦はいなくなった…

ほぼ隠居のような扱いに変化が訪れたのが、1980年代ロナルド・レーガン政権時代です。同政権ではソビエト連邦および東側陣営に対して強硬な態度を取っており、海軍でもソ連に対抗すべく「600隻艦隊構想」という軍備計画が立ち上がります。この計画はアメリカ海軍の保有艦を600隻にするというものですが、そのなかにアイオワ級の完全復帰も計画されていました。

この計画で1986年5月に復帰した「ミズーリ」はトマホーク巡航ミサイルハープーン対艦ミサイルの発射台を取り付ける大改修が施されました。狙いとしては当時脅威となっていたソ連のキーロフ級ミサイル巡洋艦に対抗するためです。

しかし、1980年代も後半になるとソ連の弱体化は顕著になり始め、そのかわりとして紛争が頻発する中東地域が主な任地となります。

1991年1月17日湾岸戦争が勃発した際は、「ミズーリ」は姉妹艦の「ウィスコンシン」と共に、トマホークミサイル発射のほか沿岸施設への主砲斉射も行いました。なお、艦砲の発射管制システムは、第二次世界大戦当時とほぼ変わらなかったそうですが、40年以上前のシステムでも十分な威力を発揮したといいます。艦隊決戦はなくなりましたが、火力支援においてはまだまだ戦艦は活躍の道があったのです。

火砲とトマホークを併用すれば、近距離は圧倒的火力での支援、遠距離は重要拠点への精密攻撃と2つの任務を1隻でこなすこともでき、同戦争が地上戦を開始してから数日で決着がついた原動力のひとつともなります。しかし、この戦争で「ミズーリ」と「ウィスコンシン」が行った砲撃とミサイル発射が、歴史上で戦艦が行った最後の攻撃となりました。

1991年3月3日イラクが国連安全保障理事会による停戦決議を全面受諾し、湾岸戦争は終結します。この後もソ連としての備えとして、「ミズーリ」は維持される可能性もありましたが、なんと同年12月にソ連が崩壊。大きな脅威が去ったということで、アイオワ級も順次退役となり、最後に残った「ミズーリ」も1992年3月31日ロングビーチで退役しました。これにより、世界中の海軍で戦艦を運用する国はなくなりました。

1980年代に大規模改修を受けた後の「ミズーリ」(画像:アメリカ海軍)。