物語をおいしく読み解く フード理論とステレオタイプ50(文春文庫)
『物語をおいしく読み解く フード理論とステレオタイプ50(文春文庫)』(オノ・ナツメ:画/文藝春秋

 映画『風の谷のナウシカ』で腐海の底へと落ちた気を失ったナウシカは、意識を取り戻すと、まずキツネリスのテトに風の谷の子供たちが集めた餞別のチコの実を食べさせる。また、ナウシカの師であるユパもまた、旅の相棒のトリウマから降りるとすぐに水を飲ませようとした。

 実はこうした物語で描かれる食事やフードの扱いには、登場するキャラクターの細部を描くための文脈が隠されている。そんな新たな視点を与えてくれるのが、福田里香『物語をおいしく読み解く フード理論とステレオタイプ50(文春文庫)』(オノ・ナツメ:画/文藝春秋)である。

 本書は物語において登場人物の性格や感情、置かれた状況を伝える装置として極めて優秀な役割を果たす「食べもの=フード」の役割を50のステレオタイプ別に紹介した一冊。食べ物を使った物語における表現手法を本書はフード理論と呼び、それはシンプルに3つの原則、「フード三原則」としてまとめられる。

1 善人は、フードをおいしそうに食べる
2 正体不明者は、フードを食べない
3 悪人は、フードを粗末に扱う

 それぞれの原則の詳細は本書を読んで確かめてほしいが、この三つの原則を読んだだけでもどこかで見たことがあるような気がする人もいるはずだ。

 これらの三原則をもとに、本書で紹介されたステレオタイプからいくつか紹介しよう。

〈ゴロツキはいつも食卓を襲う〉

 これはまさにフード三原則における「悪人は、フードを粗末に扱う」のステレオタイプである。家族や複数の人々が集まる食卓を台無しにするという、最小限の暴力で最大の悪人ぶりを表現している。フードを粗末に扱うことは、鑑賞者にとって感情的にダメージが大きく、物理的な暴力行為よりもゴロツキに激しい怒りを感じてしまうという。そしてこの場合は「食卓」という、家族や仲間といった信頼と絆のアイコンであり、その関係を蹂躙するという意味でもゴロツキに敵意を抱かせるのにもっとも効果的なのである。

〈少年がふたり並んで、食べ物を分け合ったら、それは親友の証 ポップコーンをキャッチしていたら、なおよし〉

 この一文を読んだだけでキュンとしてしまうのも無理はない。ひとつの食べ物を他人と分け合うという行動は誰しも人生のどこかで同じような体験をしているからである。食べ物を分けるということは自分が食べる量が減ることを意味するが、それでも他者に分け与えるという行為から本書はこれを「純粋な好意の具現化」と呼ぶ。だからこそ二人が「親友」であることが強固に鑑賞者に刻み込まれるため、その後の展開においてどちらかが裏切ってもよし、やっぱり裏切らなくてもよし、そのままダラダラ過ごすのもよしと、物語がどう転んでも鑑賞者の心にブッ刺さる。

 本書でとくに頷きが止まらないのが先述した宮崎駿監督作品のフード文法である。〈動物に餌を与えるひとは善人だ 自分が食べるより先に与えるひとは、もはや聖人並みである〉 では、『風の谷のナウシカ』のほかに『もののけ姫』のアシタカは早駆けさせたヤックルから降りるとすぐに水を飲ませ、『魔女の宅急便』でキキは黒猫のジジの食事をつくり同じテーブルで食事をする。『天空の城ラピュタ』のパズーとシータは朝ご飯を食べるより先に小鳥に餌を与える。

 こうした宮崎駿監督の作品で描かれる食事風景は、単なる「美味しそう」といった漠然としたレベルではなく、「食べさせるべきひとには、ちゃんと食べさせ、心が通じ合わないひととは、決して一緒に食べさせない」という確固としたフード文法を持つのが宮崎監督なのである。そのほか、〈絶世の美女は、何も食べない〉や、〈朝、「遅刻、遅刻……」と呟きながら、少女が食パンをくわえて走ると、転校生のアイツとドンッとぶつかり、恋が芽生える〉などなど、「あるある~」とどこかで見たようなステレオタイプなフード理論が登場。本書を読むことで、小説やアニメ、漫画や映画などの物語を見る目が変わる一冊である。

文=すずきたけし

Amazonで『物語をおいしく読み解く フード理論とステレオタイプ50(文春文庫)』を見る

宮崎駿監督『ナウシカ』のキャラクターを「食事」で描き分ける妙技。悪人は食事を粗末に扱い、善人は美味しそうに食べる。聖人は?