朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。
今回は元パチプロの川本俊幸さん(仮名・50歳)に、パチプロになるまで、そして「その後の人生」を語ってもらった。彼の壮絶な人生を、前編・後編の2回に渡ってお届けする。
◆専門学校を中退してバイトとパチスロにドップリ
「あんまり褒められるようなことはしてませんからね……」
川本さんがパチプロとしての人生をスタートしたのは、フリーターとしブラブラしていた20歳にまでさかのぼる。
「専門学校を中退して、フリーターしながらパチンコ、パチスロばっか打ってたんです。96年くらいだったかな。当時はクランキーコンドルなど、技術介入系が全盛期でして、私もそうした台にドップリとハマッて、朝から晩まで打ち込んでいました。スロットをもう一歩踏み込んで教えてくれたのは、当時、バイトしてたカラオケ屋の連中。リール制御やリプレイハズシ、前日に小役をハズして次の日、朝イチの小役確率の状態から設定変更を見破る減算値を利用したクロスカウンター打法とか。バイトしていた新宿界隈の状況は渋めでしたが、それでもシビアに打てば1か月トータルで十分な小遣いは稼げてましたね」
川本さんは当時の収入について、「カラオケ屋が7割、パチスロが3割」だったと振り返る。おまけに川本さんは当時はまだ実家暮らしだったため、「カネが貯まってしゃあなかった(笑)」とも。
そんな川本さんに転機が訪れたのは2001年のことだったという。
◆ノリ打ちグループに誘われ“専業”になる
「半年くらい前にバイト辞めたヤツと飲みに行ったら、『知り合いも近くで飲んでるから一緒に飲まない?』って。やって来たのはヒロさん(仮名)という私よりも4つか5つくらい年上の人で、スロットや競馬の話なんか面白くて、妙に馬が合ったんです。そしたら、よかったらスロ仲間に入んないかって」
ヒロさんのスロ仲間とは、イベント情報などを共有して仲間で高設定を確保して打ち、投資や勝ち金を等分配するノリ打ちの仲間だった。「面白そう」と感じた川本さんは二つ返事でノリ打ちグループに入ることとなる。これがきっかけで、川本さんは本格的にスロットだけでの生活、いわゆるプロ生活へと突入していったのであった。
◆パチスロ好きが集まった“牧歌的な集まり”
今でもイベントや新装開店を訪れる「軍団」と呼ばれる集団がいるが、川本さんが入ったノリ打ちグループは「パチスロ好きが集まった牧歌的な集団だった」という。
「通常営業でも1島に1台は必ず設定6を入れるホール、イベントだと全台設定5,6になるホールとか、そういう“無茶な営業”をしているホールが当時は珍しくなかったんですよ。ホール情報は今だとSNSとかなんだろうけど、あの頃はそんなもんなくて、ある程度ホールに通ってクセを見抜いたり、状況を把握しなきゃいけなかった。新装開店も新台入替も会員に送るハガキのダイレクトメッセージとか、新聞の折り込みチラシ、さもすれば店頭のポスターだけだったりね。だから、情報を持っていることって、それだけでオイシイことだったわけです」
◆高設定の台だけ終日打ち切るスタイル
イベントの情報を持ち、集団で打っていたら当然勝つことができる。他のメンバーも、時間の融通が利く人が多かったようだ。
「私がいたヒロさんのグループは15人くらいはいましたよ。東京、神奈川、千葉、埼玉のホールに会員登録したりして情報を得て、それを共有して、高設定が入るイベントや営業日、甘い営業スタイルのホールなんかを狙ってみんなで打ちに行ってたんです。それでメンバーの誰かが高設定をつかんだら、それ以外のメンバーは打つのをやめて終日打ちきってもらって勝ち金を山分けするというスタイルでした。メンバーは、みんな自営業やフリーター、学生など、時間に融通が利くパチスロ好きで、私みたいにスロットだけでしのいでいたのはほとんどいなくて、専業はリーダーのヒロさんくらいだったんじゃないかな」
◆ノリ打ちは「割のいいバイト」くらいの感覚
これだけ聞くと数の力で高設定をつかみ取り、連戦連勝と思ってしまうが、そこまでおいしくなかったとも。
「入場抽選や朝の並びもあるから溢れて取れないこともフツーにありましたし、高設定が取れても思ったほど伸びないこともあったりしましたね。高設定をつかんだメンバーが打ってる間はやることがないので、プライベート打ちしたりして、それで大勝ちすることもあれば、負けてノリ打ちの勝ち金で補填なんてこともありました。だからパチプロ軍団というよりかは、パチスロ好きが集まってツレ打ちするみたいな感じで、割のいいバイトくらいの感覚。でも、ノリ打ちする日は打ち終わったらみんなで飲みに行ったりして、勝っても負けても楽しかったですね」
とはいえ、一般の人よりもオイシイ思いをしていたことは事実である。狂乱の時代とも呼ばれた往時を少し振り返ってもらった。
「あるホールで入場抽選ナシ、初代獣王が8台あって毎日必ず1台は設定6を入れているってホールを見つけて、毎日朝5時から8人で並んで毎日設定6をつかんで毎日万枚出したことがあったんです。さすがに1週間くらいでバレて追い出されました(笑)」
◆楽しい時代は4号機の終焉とともに……
だが、ノリ打ちの楽しい時代は思ったほど続かなかった。爆裂4号機の撤去と5号機時代の到来である。
「爆裂系の4号機って、『設定6=万枚』くらいの性能があったんで、人数かけてノリ打ちする価値がまだあったんです。でも5号機は極端に出玉性能がマイルドになったんで、1台の高設定台をみんなでノリ打ちしてもたいしておいしくないわけです。それで5号機が導入されるようになってしばらくしてグループは自然消滅。しばらくは連絡取り合って情報交換してましたが、それもしだいになくなりました。みんな、今、何してんでしょうね(苦笑)」
◆収支は上向きも私生活はボロボロ
だが、逆にグループで打つよりも1人で立ち回ることで、川本さんは効率よく高設定をつかんでしのぎ、ノリ打ち時代よりも収支は上がって安定したのだとか。そんな川本さんは当時、実家を出て八王子で彼女と同棲していたというが、彼女との関係を巡って窮地に立たされることとなる。
「2006年くらいって東京都下や郊外の店がものすごい優良店揃いだったんですよ。新宿とか都内の繁華街で打つなんて馬鹿らしく思ってました。5号機に移行しても設定状況は良好で、パチンコも優秀台が多かった。当時、5号機ってギャンブル性が抑えられたことでものすごく評判が悪くて、みんな敬遠してたんです。でも、出玉性能はマイルドであっても高設定だとタコ粘りすれば安定して勝てたんですよね。おまけに客を呼ぼうと5号機に高設定を投入するホールが多かったんです。でも、客はギャンブル性を求めて残っている4号機に流れる……じゃあ、オレが打つよ(笑)って、ほぼ毎日高設定の台をつかんでましたね。10万円、20万円と派手な勝ちは減ったんですが、平均すると日当で手堅く2万〜4万円くらいは勝ってました」
◆彼女に「ちゃんと働いてほしい」と言われ…
もともと4号機の技術介入系Aタイプを黙々と打ち込んでいた川本さんにとって、初期5号機は物足りなさはあったものの、昔に戻っただけというくらいの認識だった。しかし、パチスロの調子が上がるほど、彼女との関係は冷えていった。
「当たり前なんですが、彼女としてはパチプロと結婚なんてしたくないわけです。『結婚したい』、『ちゃんと働いてほしい』、『将来のことをもっとちゃんと考えてほしい』って毎日言われて、もう、それがイヤになっちゃって結局別れました。とはいえ、当時は私も30歳を過ぎてましたから、彼女から言われたことは身にしみてわかってはいたんですけどね……。
気分転換に……と、久しぶりにカラオケ屋時代の仲間に連絡取って飲みに行ったんですが、当時大学生だったヤツらはみんなちゃんと就職してて、証券会社や不動産とか、ちゃんとしたところで働いてたんです。でも、一緒に飲んだら『川本はイイなぁ〜自由気ままに生きるなんて勝ち組だよ』なんて言われて、逆に『オレ、何やってんだろう……』ってさらに落ち込みましたね」
その後、母が亡くなり、パチプロ生活を考え直すことに……。そして、パチンコ・パチスロをやめ、専門学校への入学を決意するのであった。ここから川本さんの人生は大きく変わっていくことになる。
文/谷本ススム
【谷本ススム】
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター
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