先日、茨城県にオープンした乗りもののテーマパーク「ユメノバ」。ここには国立科学博物館が所蔵する航空機をまとめて展示した博物館もあります。そのうちの1機は、かつて上野の科博本館で展示された零戦、しかも激レアな複座型でした。

筑波山麓に誕生した新たな航空博物館

2024年2月11日筑波山のふもとである茨城県筑西市に、陸海空と宇宙の乗りものをテーマにした展示施設「ユメノバ」がオープンしました。

ここは地元企業の広沢グループが経営する一大テーマパーク「ザ・ヒロサワ・シティ」の一角に開設された建物群で、ここだけでも敷地面積は5万6千平方メートル(東京ドーム約1.2個分)あります。ちなみに、美術館やゴルフ場、バーベキュー場や宿泊施設など「ザ・ヒロサワ・シティ」全体では、100万平方メートルにもなるそうです。

「ユメノバ」の中には、飛行機や自動車、オートバイ、SLや新幹線、さらにはクルーザーやロケットなど陸海空にわたる大小さまざまな乗りものが収蔵されています。それらは、関連した資料まで含め、いくつかの博物館や資料館に分かれて収納展示されています。

複数ある施設のなかで、ひときわ目を引く大きな建物、それが同日に開館した「科博廣澤(ひろさわ)航空博物館」です。ここには国立科学博物館が所蔵する国産のYS-11旅客機(量産初号機)や南極観測隊で使われたシコルスキーS-58ヘリコプターなど、歴史的に価値のある航空機7機が展示されています。

乗りもの好きには必見といえそうな施設を、筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)もオープン2日目にさっそく訪れてきました。ひときわ目をひいたのが、濃緑色で単発のプロペラ機、零式艦上戦闘機(零戦)二一型です。

同機は、1940年代に旧日本海軍が用いた戦闘機で、かつては東京・上野の科博本館で展示されていたもの。しかも、注目すべきは、ノーマルなひとり乗りの形状ではなく、おそらく現存唯一といえる、ふたりが乗れるよう複座に改造された機体でした。

最前線で誕生した激レア零戦

一般的に「ゼロ戦」などの通称で知られる零戦は、三菱重工業で開発され、1939(昭和14)年4月に初飛行を行うと、以後、日中戦争太平洋戦争において旧日本海軍の主力戦闘機として多用されました。

軽快でバランスの取れた飛行性能や、当時としては比較的長大な航続距離、そして旧海軍の戦闘機として初めて20mm機関砲を搭載するなど攻撃力についても充実していたことから、真珠湾攻撃からしばらくの間はアメリカやイギリスなどの連合軍機を相手に空中戦で優位性を保ちました。

また、終戦までの5年間に一一型や二一型、三二型、二二型、五二型、六二型などと発展を続けたことや、中島飛行機(現SUBARU)でもライセンス生産されたことなどにより、最終的には1万機を上回る生産数に達しています。

今回、「ユメノバ」の「科博廣澤航空博物館」で公開が始まった零戦は、日米開戦初期に主力であった栄一二型エンジン(940馬力)を搭載する、二一型と呼ばれるタイプです。空母で運用可能な、いわゆる艦上戦闘機として開発されたため、限りある艦内スペースを効率的に使えるよう、主翼両端を上に50cm折畳めるようになっているのが特徴です。

とはいえ、前述したように「ユメノバ」の機体は通常の二一型とは違い、他では見られない複座式。どういった経緯で生まれ、日本に来たのでしょうか。

そもそも、この機体は、日本から遠く離れた南太平洋から里帰りしたものです。太平洋戦争中にオーストラリア近くの南太平洋に進出した日本海軍は、ニューギニア島の東側に位置するビスマルク諸島のニューブリテン島ラバウルに、この地域の拠点となる比較的大規模な基地を設けました。

これに伴い、南太平洋諸島の確保やトラック諸島の防衛、機動艦隊の支援などの目的で航空部隊も配備されます。さらに航空機を整備・修理するための規模の大きな工廠もラバウルに造られました。

その後、戦局が悪化すると日本本土から整備資材などが届かなくなります。しかし、前出の工廠が設置されていたことで、そこの工員たちが創意工夫で部品を自前で作り出すなどしてラバウルでは整備・修復が続いたのです。

そうした場所だったため、改造などもある程度はできたようで、この零戦二一型も、そのような経緯で中古機や余剰部品を基にして複座の偵察機として生み出されたものの1機だったようです。なお、この様な正式ではない現地改造機は、他にも複数存在したといわれています。

日本で続いた修復 その後新たな発見も

「ユメノバ」で展示が始まった複座改造の零戦は、戦時中にラバウル北西のニューブリテン島ランパート岬から約250m沖合の水深8m地点に墜落した機体で、1972(昭和47)年に裏返しの状態で発見されて海中から引き揚げられました。ちなみに、垂直尾翼の番号「53-122」から、ラバウルに残留した航空部隊「二五三空」の所属であったことが確認されています。

こうして再び陽の目を見るようになった複座の零戦二一型は、オーストラリアでの復元作業を経て日本へ里帰りを果たしたあとも数回の修復が続けられ、いまのような姿になっています。長いあいだ海に沈んでいた結果、失われた補助翼の羽布は再び張られ、塗装についても三菱製とは異なる、中島飛行機製ならではのものが施されています。

このとき、機体に何か所か残る機銃痕をジュラルミン(アルミ合金)のパッチで補修した跡や、現地で不足していた沈頭鋲(ちんとうびょう)の代わりに通常のリベットを裏から打って表側の頭を潰すなどといった工夫も確認できました。

同機は、2020(令和2)年7月まで産業遺産および航空遺産として上野の科博本館で展示されていましたが、機体の再修復を機に、新たに科博分館として開設される「科博廣澤航空博物館」への移転が決まります。そして当初の開館予定より2年ほど遅れましたが、ようやく4年ぶりの公開となりました。

なお、上野時代はエンジンが見えるようカウリング(カバー)が外されていましたが、ここではそれが付いた状態での展示に改められており、往時の姿を目の当たりにできるようになりました。また機体の前には、復元された計器盤も展示されています。

この施設では、さまざまな乗りものと共に「夢の場」で翼を休める零戦を間近に見ることができます。すぐ隣にはYS-11旅客機も展示されているため、戦前と戦後の両方を代表する国産機を見比べることも可能です。

前述したように、事実上の現存唯一といえる激レア機です。少し東京からは離れていますが、一見の価値ある国産戦闘機を訪ねて足を運んでみてはいかがでしょうか。

茨城県筑西市の乗りものテーマパーク「ユメノバ」にある、「科博廣澤航空博物館」で展示される零式艦上戦闘機(零戦)二一型の複座改造機(吉川和篤撮影)。