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遺体に手を合わせる石原さん夫妻(撮影:須藤明子)

誰にもみとられず、自宅などで亡くなる人は年間約3万人もいるという。また総務省によると、2018年4月からの約3年で、遺体の引き取り手がなかった死亡者は10万5773人にも上った。

けっして、珍しいものではなくなった孤独な死。そうして亡くなった人に寄り添い続ける葬儀社が福島県いわき市にある。いしはら葬斎。夫婦二人だけの小さな葬儀社の電話は今日も鳴りやまない。(全2回の1回目)

■「おつかれさまでした」。孤独な遺体を見送る夫婦

「この人はAさん。まだ70代前半なのよ。早すぎるよねぇ」

線香を上げ、手を合わせていた石原きみ子さん(63)は柔らかな笑みとともに振り返ると、まるで懐かしい知人でも紹介するように、棺の中の男性について説明した。どこの家にもありそうな和室の8畳間。

ようすが少し違っているとすれば、凍えるほど室温が低いことと、防臭剤の独特な香りが立ち込めていることぐらいだろうか。

「普通に眠っているみたいな、きれいなお顔をしているでしょう」

棺をのぞき込むと、きみ子さんは「あっ」と小さく声をあげた。

「お父さん、Aさんのお顔、やってあげて。お口からちょっと、よだれかな、出てきちゃってるから」

声をかけられたのは夫の充さん(68)。「どれどれ」と棺の脇にしゃがみ込むと、小さな道具箱の中から脱脂綿を一つつまみ出し、丁寧にAさんの口元を拭い始めた。

石原さん夫妻は、福島県いわき市で小さな葬儀社「いしはら葬斎」を営んでいる。Aさんが横たわっていたのは、この葬儀社の遺体を安置しておくための部屋だ。

もともと、二人は大手の葬儀社に勤めていた。立派な祭壇にたくさんの花、大勢の参列者に豪華なお斎(食事)……見栄えのいい葬儀は、当たり前のように高額の料金が設定されていた。そんな葬儀を間近で見てきたきみ子さんは「もっと安価にできないのか?」と長年、疑問に思ってきた。そして、充さんを巻き込むようにして’10年、独立を果たした。

以来、スタッフは夫婦二人だけ。だから、余計な人件費はかからない。祭壇や香炉台などは、手先の器用な充さんがホームセンターや100円ショップで材料を調達、自作した。徹底的にコストを抑えた結果、破格の料金の家族葬を実現、提供してきた。

すると、思いがけないことに、地元市役所や警察署から、ちょっと“訳あり”な葬儀の仕事が舞い込むように。多くに共通するのは、ひとりきりで最期を迎えた、いわば孤独死した人たち。一般的な葬儀は行われず、石原さんたちが預かった遺体は火葬場に直接運び込まれる、いわゆる「直葬」だ。

いま、目の前に横たわるAさんも、じつは直葬で旅立つ一人。そのAさんを気遣うようにして、きみ子さんは声をひそめ、話した。

「彼は生活保護の受給者でした。病院で亡くなったけど、誰もいないんです、お身内の方が一人も。だから、火葬の日もAさんを見送るのは、私たち二人だけなんです」

Aさんのように、荼毘に付され骨になるそのときすらも立ち会ってくれる者が誰もいない、そんな人は少なくない。充さんは言う。

「本当に身寄りがない人もいますが、なかには家族や親族が見つかった人もたくさんいました。でも、役所や私たちが連絡をとると『関わりたくない』と、参列を拒まれることも。というか、最近ではそんな人ばっかりです。だから、多くの場合、火葬場で私たち二人だけで故人様をお見送りするんです」

遺体が火葬炉に入れられるとき、二人はそれぞれ、こんなふうに言葉をかけるという。きみ子さんは優しい母のようなまなざしで、

「たいへんだったね、頑張ったね。お見送り、私らだけでごめんね。でも、幸せに逝ってね……」

いっぽう、充さんの手向けの言葉は、いつも決まって「おつかれさまでした」。

大往生だろうと、若死にだろうと、世知辛い世の中を、そのときまで生き遂げたのは間違いないんです。だから、私は故人様、みなさんに『おつかれさまでした』と」

創業からまる14年。独立の1年後に発生した東日本大震災の犠牲者も含め、これまで2千人近い人を見送り続けたきみ子さんと充さん。そう、ここはどんな遺体も温かく迎え入れ、寄り添い、そして送ってくれる。そんな不思議な、小さな葬儀社だ。

■「葬儀社、やっから」。妻の一言で脱サラが決まった

「私は生まれも育ちも、ここなんです。じつはここ、もとは私の母の実家だったんですよ」

いわき市の好間地区にある葬儀社の事務所で取材を始めると、きみ子さんはこう言ってほほ笑んだ。きみ子さんは1961年に生まれた。地元の高校を卒業後、バス会社に就職し、バスガイドになった。

「5年間、双葉郡浪江町の営業所に、寮生活しながら勤めました。その間だけです、地元を離れたのは。その後、女性司会者を養成したい地元の結婚式場に『バスガイドなら人前で話すの、得意だろ』と誘われ、転職したんです」

転職先で知り合ったのが、最初の夫。きみ子さんは23歳のときに結婚し、男の子3人をもうけた。しかし、その結婚生活は10年で幕を閉じ、33歳で離婚。

「ずっと専業主婦でしたが、前の夫が『もう、結婚式場が繁盛する時代じゃない』とよく話していたんです。『この先は葬祭場の時代だ』とも。それを覚えていたので離婚後、葬儀社に職を求めたんです」

そこで出会ったのが、やはりバツイチだった充さんだった。やがて二人は再婚。このとき、きみ子さん38歳、充さん45歳。

再婚後、充さんが葬儀社でのキャリアを重ねるいっぽう、きみ子さんは退職し、高齢者施設で調理の仕事を見つけ働いていた。そんなある日、きみ子さんは葬儀社時代から顔なじみの写真館の店主に、こんな話を聞かされる。

「ご主人、中間管理職だろ。なんか、大変そうだ、上司と部下の板挟みで、いつも疲れた顔してるぞ」

夫の身を案じたきみ子さん。ちょうど同じころ、ニュース番組が報じたある事件に目を止めた。

「お金がなくて葬儀代が出せないばっかりに、亡くなった妻の遺体を庭に埋めた男性が、死体遺棄の容疑で逮捕された事件でした。それを見て改めて思ったんです。『そんなにお金かけなくても、葬儀はできるんじゃないかな』って」

その瞬間、きみ子さんのなかで「夫を会社勤めのストレスから解放してあげたい」「もっと安価な葬儀を実現したい」、この2つの思いが掛け合わさった。

「そうだ。だったら二人で新しい葬儀社、始めればいいんだ!」

きみ子さんいわく「そこからは、起業のノウハウを猛勉強、二人で独立の準備に奔走した」という。ところが、妻の話を横で聞いていた夫は苦笑いを浮かべていて。

いえいえ、全部妻がひとりで勝手に決めてしまって。私は『会社、辞めたい』なんて一言も。それに、このかた、勉強もなんも……、ただただ私に『葬儀社、やっから』って。それだけですよ(苦笑)」

夫のこの言葉に、妻は笑顔をはじけさせた。

「あれ、そうだったっけ? ま、私としては、夫の経験さえあれば、どうにかなんだろって(笑)」

こうして2010年2月1日、小さな葬儀社「いしはら葬斎」は、その産声をあげたのだが。起業したものの、仕事はなかなか入ってこない。充さんはひたすら事務所で電話番。きみ子さんは居酒屋アルバイトをして、糊口をしのいだ。

生活保護者の「福祉葬」から行政とのつながりが……

最初の依頼が舞い込んだのは、その年の6月。バイトの合間にきみ子さんがせっせと配ったチラシを目にした人からの電話だった。

「隣町の市営住宅に暮らす年老いたご両親と、別棟に住む子供さんたち家族。その、70代後半のおばあさんが病院で亡くなって。『自宅に連れて帰って、家族葬をしてあげたい』、そんなご依頼でした」

石原さん夫妻は、早速仕事に取り掛かった。遺体を病院から自宅に搬送し、棺に寝かせると、祭壇を飾りつけた。先述した、充さんお手製の祭壇だ。この、初仕事となった家族葬、二人にとって印象深いものに。しみじみとしたようすで、きみ子さんは述懐した。

「決して広いわけではないご自宅に、お子さん、お孫さんたち大勢が集まって。お孫さんには『おばあちゃんにお化粧してあげて』と言って、ご遺体と触れ合ってもらったり。そうやって、手をかけたほうが、ご遺族もちゃんと思い出に残るし、故人様も幸せにお別れできると思うんです。

もちろん、涙ハラハラなシーンはありましたけど、とてもにぎやかに、ご家族の多くが、笑顔でおばあちゃんを送り出していた。『こういう葬式もいいもんだね』って言っていただけました」

好評の理由をきみ子さんは「ご遺族をお客様扱いしなかったからかな」と分析した。充さんも言う。

「うちでは、ただ参列すればいいって葬儀はやりません。私ら葬儀屋は送る手伝いをするだけ、あくまでも主役は、ご家族なんです」

初仕事から1カ月ほどたった夏のある日、別の市営住宅で息を引き取った男性の葬儀を引き受けた。その打ち合わせのなかで、故人の弟から「兄は生活保護を受けていた」と打ち明けられる。

「『それが、なにか?』というのが最初の率直な感想。というのも、私も夫も福祉葬、生活保護を受給している人の葬儀は、それまでやったことがなかったからなんです」

「福祉葬」とは、喪主が経済的に困窮状態にある場合や、故人に葬儀代を払える身寄りがない場合に、国が費用を肩代わりし、最低限の葬儀が行える制度。生活保護法でも「葬祭扶助」として定められている。葬儀形式は火葬のみを行う直葬に限られ、費用には自治体ごとに決められた上限額がある。

以上のような説明を、市役所の担当者から聞いたきみ子さん。そもそも、小規模で安価な葬儀を執り行うことを目的に起業した自分たちにも、ここにビジネスチャンスがあると考えた。

いわき市ではそれまで、主に全国チェーンの葬儀社さんが、福祉葬を担っていました。でも大手にとっては、あまりもうかる葬儀ではないので、多くの場合、上限額いっぱいの見積もりを出していたと思います。いわき市の葬祭扶助の上限額は当時18万3000円でした」

ここでも、石原さんたちは、超破格値の見積もり額で入札に挑む。

「金額は言えませんけど、上限額をだいぶ下回る金額。もうけなんか本当にちょこっと。でも、私たちは夫婦二人が食べていければそれでいいという考え方ですから」

税金を投入する手前、1円でも安く引き受けてくれる葬儀社は市としてありがたい。そのうえ、いざ任せてみれば、丁寧な仕事ぶりで利用者の評判も上々となれば……。

「そこからです。どんどん福祉葬の依頼が入るようになって。さらに行政同士、つながりがあるみたいで。そのうち、今度は警察署からの紹介の仕事も入るように」

こうして、いしはら葬斎には、孤独死した身寄りのない人や生活保護を受けていた人、さらに事件や事故の犠牲者、自殺者など、込み入った事情のある葬儀の依頼が次々寄せられるようになった。

【後編】小さな葬儀社がみた3.11「東日本大震災で亡くなったご遺体はお顔だけが驚くほどきれいでした」へ続く

(取材・文:仲本剛)