2月13日(日本時間14日)にアメリカのスタンフォード大学に進学することを発表したのが、高校史上最多の通算140本塁打を誇る佐々木麟太郎(花巻東)だ。

公正取引委員会のメスが入り、2020年「田澤ルール※」が廃止されたこともあって、アマチュア選手の選択肢は増えたように思える。ただ、実際に名の知れた選手が行動に移すことは未だに珍しい事例だ。

本記事では、これまでプロ野球から高校野球まで野球関係の記事や書籍を幅広く執筆している野球著作家のゴジキが、「アマチュア選手の進路」について考えてみたい。

(※日本のドラフトを拒否して海外球団と契約した選手に対し、帰国後の3年間又は2年間、ドラフトで指名しない制度。制度ができた背景は2008年に田澤純一が、日本のドラフト拒否を表明し、メジャーリーグの球団に入団してしまったため)

◆「ストレートに振り遅れる弱点」が解消されれば…

将来有望な高校球児の従来の進路といえば、ドラフトで指名されるべく、プロ志望届を提出したり、大学進学や、社会人野球のチームに入ったりする選択肢が一般的である。しかし、佐々木が選んだ道はアメリカの大学に入学し、ベースボールの本場でプレーすること。競技は異なるが、まるで『SLAM DUNK』の登場人物のような身の振り方に対して、日本中が驚かされた。

数多くのアーチを描いた佐々木だが、一定以上の水準に満たした投手に苦戦していた印象がある。特に、元々テイクバックの際に肩が入り気味のフォームだったため、最後の夏の甲子園で対戦した湯田統真(仙台育英)が投げていた速球や強度のある変化球への対応が遅れていたことは象徴的だった。

高校生とプロ野球ではレベルが異なるが、柳田悠岐福岡ソフトバンクホークス)は、2017年までのフォームが肩が入り気味で、身体能力任せの部分があった。しかし、2018年シーズンを機に肩の入りが緩和し、テイクバックからフォロースルーまで滑らかになり、ベテランになった今でも第一線で活躍している。

アメリカでストレートに振り遅れる弱点が解消されれば、大きく化ける可能性は高いだろう。

◆高卒での“メジャーリーグ挑戦”を公言していた大谷翔平

名実ともに「世界一の野球選手」と言ってもいい大谷翔平(現・ロサンゼルス・ドジャース)。彼もプロ入り前に、高卒での“メジャーリーグ挑戦”を公言していた。しかし、当時北海道日本ハムファイターズの監督を勤めていた栗山英樹氏の説得により、まずは日本で経験を積むことになった。

もちろん、入団前の時点ではOB含め賛否両論がはっきりと分かれていた。これまでのプロ野球の歴史を振り返っても、二刀流として成功した選手は誰一人いない。栗山氏は、辛抱強く大谷を開幕から二刀流で起用し続け、2年目から文句なしのキャリアを積み重ねていくことに繋がる。そして、5年目の2016年には球団に恩返しするかのように投打で圧倒する活躍を見せ、最大11.5ゲーム差をひっくり返して逆転優勝。日本シリーズでも、最初の2戦で2連敗と劣勢だった中で、大谷が3戦目にサヨナラタイムリーを放った。その後、チームは一気に勢いに乗っていき、4連勝で日本一に輝いた。

個人としても、史上初の投打でベストナイン(投手と指名打者で受賞)やシーズンMVPに輝いている。この時の大谷は、日本でやることはほとんどない状態だったと言っていいだろう。その後、2018年にメジャーリーグでデビューし、新人王を獲得。2021年にはシーズンMVP、2023年にはWBCとシーズンMVPを獲得。

大谷の場合は、不世出の才能を信じたファイターズがのびのびとプレーできる環境を設けたことが奏功した。日本のプロ野球でしっかりとキャリアを築きながら、メジャーリーグで活躍できる土台を作った結果が今の成績に結びついている。

◆史上初の快挙を成し遂げた加藤豪将

昨年からファイターズプレーをする加藤豪将は、親の仕事の兼ね合いで、幼少期からアメリカで育った。高校時代は、米カリフォルニア州サンディエゴランチョ・バーナード高でプレーし、ドラフト会議に選ばれる前は、33試合に出場して打率.355本塁打11本塁打、33打点を記録。高校卒業後は、メジャーリーグドラフト会議で、ニューヨーク・ヤンキースから2巡目(全体66番目)で指名された。

日本国籍を持つ選手が、メジャーリーグドラフトの全体100番目以内で指名されるのは史上初の快挙である。しかし、メジャーリーグの道は険しく、なかなかメジャーの舞台には立てないままだった。2022年にようやくメジャーのロースター枠に入り、8試合に出場。

ただ、出番がもらえない日々が続き、2022年の日本のプロ野球ドラフト会議にて、ファイターズから3位指名される。日本球界の1年目は自主トレーニング中に右示指末節骨骨折するなど怪我に苦しむ状況の中で、62試合に出場して打率.210、6本塁打、16打点を記録。まだ2年目とはいえ、30歳になる。早くも正念場と言えよう。

加藤の場合は、高校卒業後の若手の頃に体型や体力に合った基礎練習をしていくなどを含めた下積み期間がなかったことが痛かった。たらればにはなるが、怪我の多い現状を見ると、日本のプロ野球を経験してからでも、遅くはなかったように感じられる。

◆日本を経由せずにメジャーリーガーになった田澤純一

社会人野球で活躍し、ドラフト前にさまざまな話題を振りまいたのが、田澤純一。現在は、かつて海を渡る前に所属していたENEOSに復帰しているが、れっきとした元メジャーリーガーである。

2008年にボストン・レッドソックスに入団。アマチュアでプレーしていた選手では、日本のプロ野球やマイナー契約を経ず、メジャー契約を結んだ初の日本人選手に。メジャーデビューした翌年から、着実にキャリアを積み重ねる。第一線で活躍し続け、特に、シーズンはもちろん、ポストシーズンも活躍し、上原浩治(元・読売ジャイアンツ)とともにワールドシリーズ制覇に貢献した2013年の姿は鮮烈だった。

この田澤の活躍があったからこそ、NPBを経由せずともメジャーリーグに挑戦できる土壌ができたのは間違いない。時代が違えば日本代表としてマウンドに上がっていたはずだ。

◆高校卒業後に渡米していた鷲谷修也

斎藤佑樹(元・北海道日本ハムファイターズ)を擁する早稲田実業と、3連覇を狙っていた駒大苫小牧で決勝を争った2006年夏の甲子園。当時、駒大苫小牧のエースだった田中将大(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)とチームメイトだったのが鷲谷修也だが、実は高校卒業後に渡米している。

半年間英語を勉強した後アメリカ・カリフォルニア州デザート短大の一般入試を受けて合格し、野球部に入部。リーグ戦で活躍したことにより、メジャー球団から調査書が送られてくるようになる。その結果、2008年のメジャーリーグドラフト会議で42巡目(全体で1261番目)でワシントン・ナショナルズから指名を受けるが、短大から大学への編入を考えていたため辞退。翌年も、14巡目(全体で412番目)で再びナショナルズに指名され、「オフに北海道に戻って多くの人が応援してくれていることを知り、チャレンジを決めた」と意気込んで契約。しかし、2010年にルーキーリーグ開幕前に解雇され、日本に帰国して石川ミリオンスターズプレーしたが2011年に現役を引退した。

現役引退後は、渡米した経験などを活かし、2011年に上智大学に編入し、2014年に卒業。2014年には、三井物産に入社し、現在は商社マンとして活躍している。

野球では、プロ野球選手やメジャーリーガーとはいなかったが、アメリカで生活した経験により、ポジティブシンキングになったという。アメリカの経験で「ミスを恐れない」考え方に変わり、現在のビジネスの場でもそのマインドが活かされているのだろう。

◆「漫画の世界」が現実に

表面上では多様性を受け入れつつあるように見える今の日本ではあるが、前途ある若者の挑戦に対しては辛辣な意見が多い傾向がある。就活時における“新卒至上主義”にも共通する話で、レールを外れることに対しての寛容さが不足している気がしてならない。まさに大谷が二刀流に挑戦した際の例が分かりやすかったと言える。

野球界において可能性を広げた出来事といえば、昨年のWBCで栗山氏がラーズ・ヌートバー(現・セントルイス・カージナルス)を選出したことだろう。次回以降にも日本にルーツを持つ選手を選出する流れを作ったことは、非常に大きな出来事だった。

佐々木の持っている「打球に角度をつけることができる能力」は天性のもの。大谷のように外国人にも見劣りしない打撃力をつけてほしい。ゆくゆくは日本を代表する打者になることを期待していきたい。

ひと昔の野球界の風潮なら、高卒後にメジャーリーグ挑戦などは、「漫画の世界」だった。佐々木の選択が当たり前になったとき、日本の野球はさらに別次元のレベルに到達するかもしれない。

<TEXT/ゴジキ>

【ゴジキ】
野球評論家・著作家。これまでに 『巨人軍解体新書』(光文社新書)・『アンチデータベースボール』(カンゼン)・『戦略で読む高校野球』(集英社新書)などを出版。「ゴジキの巨人軍解体新書」や「データで読む高校野球 2022」、「ゴジキの新・野球論」を過去に連載。週刊プレイボーイやスポーツ報知、女性セブンなどメディアの取材も多数。Yahoo!ニュース公式コメンテーターにも選出。日刊SPA!にて寄稿に携わる。Twitter:@godziki_55

加藤豪将Instagramより