世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。

 現代社会において、嫉妬という感情から完全に自由になれている者などいないだろう。ゆえに巷には、嫉妬から逃れる方法だとか、自分のことだけに集中する方法だとか、いわゆる自己啓発的なあり方を説くものが溢れているのかもしれない。

 しかし、どうやっても振り切ることのできないものを振り切ろうとしたところで、結局気づくと元の木阿弥、堂々巡りを繰り返すだけになってしまう。ならばとことん見つめ返し、じっくりと観察し、いかにして付き合っていくかを考えてみるほうがいいだろう。そのための取っ掛かりとして、山本圭・著『嫉妬論』(光文社)は手頃な1冊になるはずだ。

 政治思想史を専門とする著者曰く「本書を単に嫉妬心を戒めるといったありがちな説教にはしたくない」「代わりに強調したいのは、嫉妬感情が単に個人的なものではなく、私たちの政治や社会生活と深くかかわっている」(27p〜28p)とのことで、嫉妬にまつわる思想史をさまざまな角度から展開し考察する構成になっている。登場するのは古代の哲学から現代の映画作品に至るまで、非常に多様かつ長期間にわたっている。遥か昔から我々は嫉妬に悩まされているということだ。

 嫉妬とジェラシーの違い(前者は欠如、後者は喪失を基盤にしている)、嫉妬は比較可能な対象にのみ生じる(自分とかけ離れた対象に対しては嫉妬ではなく憧れを感じる)、嫉妬は自分の損得とは無関係に他者の幸福を許せない(たとえ自分が損をしても他者の邪魔をする)、といった特徴は、誰もが身に覚えのあるものではないだろうか。自分がそれを向けられたこともあるだろうし、逆に向けてしまったこともあるだろう。いずれにせよ、できれば思い出したくはない苦い記憶の場合が多いのではないか。ちなみに本書には、自分が嫉妬していると他人に思われる恐怖と、自分が嫉妬していることを自分で認める恐怖、この2点についても言及がある。なるほど、ゆえに我々は、嫉妬から(あらゆる意味において)逃れようともがくのか……。

 著者はまた、嫉妬には効用があるとも言う。確かに嫉妬を原動力にして己を高めることができれば、自分のためになるだろう(他者の邪魔もせずに済む)。しかし本書の文脈においては、そのような嫉妬=良性嫉妬は憧れとして捉え、悪性嫉妬=隣人への敵意を持った感情にのみ的を絞っている(37p)。しかしそれでも効用があるということに、希望を感じようではないか。

 それはたとえば、嫉妬が民主主義=デモクラシーにとって必要な情念であるといったことだ。嫉妬は他者との比較によって生まれ、平等を求めるものである。つまりそこに差異があるからこそ生まれる感情であり、差異と平等(のバランス感覚)こそがまさに民主主義の基盤である以上、もはやこれらは「同じ土壌から生まれた双子」(231p)なのだ。

 ところで、私は常々『はたらかないで、たらふく食べたい』(栗原康)を理想とすることを公言しており、となると当然のことながらベーシックインカムの導入に大賛成である。仮に月に20万円ほどベーシックインカムとして懐に入ってくるようになれば、私はお金のために働くことをやめるだろう。道楽でやれる本屋、最高だね!

 なぜさっさと導入しないのかと思うのだが(そう思いませんか?)、反対論者曰く「皆が働かなくなったら生産力も落ちるし、社会が成り立たなくなる」といった理由が挙げられている。

 しかしこの反論は、嫉妬の持つ力を過小評価しているのではないか。我々は貪欲なのだから、20万円で満足できない者はもっと稼ごうとするだろう。あるいは、お金という尺度を抜きにしてひたすら成果物の質を高めることに邁進する者も出てくるだろう(これはお金の心配をしなくて済むがゆえに可能になる)。いずれにせよ、労働と生産に関する量と質は落ちないし、それどころか上がるのではないか。そうしてより多くのお金を稼いだり、成果物の質を高めていく他者を見ていれば、どうせ我々はそれに嫉妬するのだ。あるいは逆に、働かない者への嫉妬によって、より働かないでいることを追求するようになるのかもしれない。

 同時に思うのは、嫉妬は、我々が無自覚のうちに内面化させられている自己責任論や、「できる人間になれ」という抑圧とも“双子”なのかもしれない、ということだ。ベーシックインカムを受け入れられないのは、まさに「自分の損得とは無関係に隣人の幸福を許すことができない」(41p)の典型例であり、ここに自己責任論や「できる人間になれ」の抑圧が重なってくることで、政治/社会という他者に頼る怠惰な者は許せない=自分は頼らず我慢してできる人間になろうとしているのにずるい、という嫉妬に支配されることになる。

 巷に溢れる自己啓発的な言説、つまり「他者と比較するのをやめてありのままの自分を愛そう」「政治や社会のことを考えてイライラするよりも自分磨きをしよう」といったものは、一見すると嫉妬から解放される手段を提供しているように思えるかもしれない。しかしそういった言説そのものが、「他者と比較せず生きられるほどに自信に満ち溢れた者」や「政治や社会を堂々と批判できる者」に対する嫉妬から生まれているのだとしたら、やはり我々に必要なのは嫉妬から逃げずに正面から向き合う(あるいは背後から観察する)ことになるのではないか。

 しかし、言うは易し行なうは難しであるのもまた事実。嫉妬を完璧にコントロールすることは、先人たちの誰ひとりとして達成できなかったのだから。スッキリする解は見つからない。しかし「嫉妬に何かしら意味があるとすれば、それはこの感情が「私は何者であるか」を教えてくれるから」(235p〜236p)なのであれば、まずはそこから始めてみるのがいいのだろう。

評者/関口竜平
1993年2月26日生まれ。法政大学文学部英文学科、同大学院人文科学研究科英文学専攻(修士課程)修了ののち、本屋lighthouseを立ち上げる。著書『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』(大月書店)。将来の夢は首位打者草野球)。特技は二度寝

―[書店員の書評]―


山本圭・著『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する』(光文社)