「オー人事、オー人事」というナレーションとともにチャイコフスキーの楽曲『弦楽セレナーデ』が流れるCMを覚えていますでしょうか? 1997年から2004年まで約6年間シリーズ展開されていた人材派遣会社のCMです。40代以上の世代にとっては懐かしの名CM。あのメロディを耳にすると「転職」が思い浮かぶという方もいるのでは? 今回のテーマは「CMとクラシック音楽」。著書『生活はクラシック音楽でできている 家電や映画、結婚式まで日常になじんだ名曲』(笠間書院)から、音楽プロデューサーの渋谷ゆう子氏が、名曲に隠された作曲家の人生や時代背景を交えながら解説します。

転職したくなる悲愴感

クラシック音楽の持つ雰囲気、楽曲のイメージはその楽曲の完成度が高ければ高いほど、それが加わった映像のクオリティも高くするようです。特に短い時間で意図を伝えなければならないテレビCMでの効果は抜群です。チャイコフスキーの楽曲に、そうしたCMで使われた代表的な楽曲があります。それは『弦楽セレナーデ ハ長調作品48』です。現在の職場がどれだけ酷(ひど)いのかをドラマ仕立てで構成し、一刻も早く転職をしなければ、と見ている人を誘う人材派遣会社スタッフサービスのCMに使われていました。

「オー人事、オー人事」というナレーションのこのCMは1997年から2004年まで約6年間シリーズ展開されています。職場の酷いシチュエーションの、その悲愴感を『弦楽セレナーデ』のヴァイオリンのメロディがさらに盛り立てています。このCMは日本国内だけでなく海外でも多数の広告賞を受賞したというのですから、反響の大きさとクオリティの高さがうかがえます。

20年の時を経てもこのCMの記憶は薄れず、2018年には期間限定2日間のみで新作6本をウェブで公開し、400万回再生を記録したというから驚きです。このCMのシナリオ、シチュエーション、もちろん映像そのものが良かったことは当然としても、そこにさらに印象を強く与える力のある楽曲を選択したこともまた、功を奏したといえるのではないでしょうか。

この『弦楽セレナーデ』は、ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキー1840〜93)が1880年に作曲した、4楽章からなる弦楽オーケストラヴァイオリンヴィオラチェロコントラバスの合奏)の楽曲です。CMに使われたのはこの第1楽章冒頭の部分、つまりこの楽曲の最初の部分が大変印象的だということになるでしょう。

チャイコフスキー自身がこの楽曲について「モーツァルトへのオマージュで、モーツァルトの作曲手法や様式を意識している」と言ったとおり、古典的で伝統に則った美しい様式で構成されています。また、一方では第4楽章を「ロシアの主題によるフィナーレ」とし、自身のアイデンティティをしっかりと組み込んでいます。こうした楽曲の成り立ちは、社会人としてまっとうに仕事をしながらも、自分自身のアイデンティティを大事にできる環境を摑(つか)みに行くという、積極的転職のイメージをしっかりと支えているともいえます。

このCMの成功は、BGMにクラシック音楽を選んだことによって、それを作った作曲家と世界の歴史の中身も含めることになるという好例です。

ぶよぶよとした何かをやっつけて

クラシックの使い方が斬新すぎるのは、ゴキブリ退治の薬剤バルサンの2023年のCMです。引越しをしてきて荷物を出す前に、バルサンを焚いて害虫退治をしようという内容ですが、そこにエリック・サティ(1866〜1925)作曲の『ジムノペディ』第1番が使われています。不思議でおしゃれな雰囲気を持つピアノの楽曲です。

この曲を作ったエリック・サティ1866年フランスで生まれました。小さな時から教会で奏でられるオルガンを聴くのが大好きだったようです。音楽家を目指してパリ音楽院に入学するも、教授から「才能ないから止めたら」と言われて退学してしまうという、かわいそうな青年でした。自分でも「学校は退屈」と言っていたとも。どうも学校というシステムに馴染めない人物だったようです。やっぱりというか当然というか、先生や友人たちから変わり者と言われていました。

ただ、音楽への興味関心は尽きず、退学したのちも当時のパリで文化人らが集っていたカフェ・シャ・ノワール(黒猫)に出入りするようになります。このカフェは小さなコンサートホールとしても機能していて、ピアノが置いてありました。ここでサティはピアノの演奏で生活費を得るようになります。この頃に作られたのが『ジムノペディ』第1番です。

サティは自分の音楽が目指すところを「家具の音楽」というタイトルに込めていました。つまりお行儀よく座って音楽を拝聴するという仰々しい鑑賞方法ではなく、そこに家具のように”在る“”ただそこに流れている“ことを目指したといいます。こうした哲学的な思いで音楽を作るようになった一方で、サティは奇妙なタイトルの楽曲も数多く残しています。代表的なものとしては『梨の形をした3つの小品』『ひからびた胎児』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』など、題だけでもインパクトのあるものばかりです。フランス語で指す梨というのも美味しい果実という意味だけでなく、まぬけ、ばかといった内容も含まれていて、サティの異端児ぶりが垣間見えます。

『ジムノペディ』第1番もご多分に漏れず、タイトルに怪しげな意味を持っています。ジムノペディという言葉は、若い男性たちが衣服を着ずに踊り狂って競い合うという、古代スパルタの祭りに由来しているとされています。

さらには、このタイトルの後には、「ゆっくりと苦しみをもって(Lent et douloureux)」という演奏上の指示が書かれているのです。じっくり、ゆったりとしたテンポで弾き、裸で踊り合う男たちのように競い合うことに加えて、じわじわと苦しみも加味していく楽曲……而(しこう)してバルサンはかくもゆっくりと、じっくりと、そして確実にゴキブリに効いてくるのです。苦しみをもって……なんと恐ろしい選曲ではありませんか。

渋谷 ゆう子

音楽プロデューサー

(※写真はイメージです/PIXTA)