昨年、大好評だった大回顧展「マティス展」(東京都美術館)に続き、国立新美術館5月27日まで開催中の「マティス 自由なフォルム」。ポップでおしゃれな作風の画家というイメージが強いマティスですが、その影にはあまり知られていない、意外な変遷がありました。

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文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

ピカソとともに20世紀美術を代表する画家

 20世紀の初め、マティスは「フォーヴィスム(野獣派)」という新しい芸術動向を創出し、「キュビスム」を創出したピカソとともに美術史に大きな革新を起こしました。その功績は、後世の芸術家たちに大きな影響を与え続けています。

 フォーヴィスムの特徴として、人物や風景を激しく鮮やかな色と荒々しい筆触で表現していることがあげられます。目に見えるままの自然の固有色ではない色彩を使って表現したことは、現代美術の出発点といえるでしょう。

 これまで日本での知名度はピカソに比べ低かったマティスですが、昨年の大回顧展で再評価され、人気が高まっています。今回の展覧会のメインである鮮やかな色彩と自由なフォルムの切り紙絵の表現にいきつくまで、画家人生で実にさまざまな画風に挑戦しています。その生涯と画風の変遷を紹介しながら、マティスの魅力を伝えていきたいと思います。

 マティスは1869年12月31日フランス北部のル・カトー=カンブレジという織物業がさかんな町の商人の息子として生まれました。サン・カンタンという町のリセ(高等中学校)を出たのちパリで法律を学び、卒業後はサン・カンタンに戻って法律事務所に勤務していました。

 ところが1890年、20歳の時に盲腸をこじらせてしまい、1年ほど療養生活をすることになります。時間を持て余していたマティスの退屈しのぎにと母親が買ってきてくれたのが絵具でした。これが絵画との運命的な出会いとなって、そこから画家をめざすことを決心します。

 1891年、マティスはパリに移り住み、当時人気のあったウィリアムブグローの私塾アカデミージュリアンに入学して絵画を学びます。

 しかし、アカデミックなブグローデッサンを重視し、その退屈な授業に嫌気がさしたマティスはアカデミージュリアンを去りました。翌年に挑戦したエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の試験では不合格となり、国立装飾美術学校の夜間部に通い始めます。ここで後にマティスとともに野獣派と呼ばれる、アルベール・マルケと出会います。

 同時にエコール・デ・ボザールの教授でもあった象徴派の芸術家ギュスターヴ・モローのアトリエの聴講生となったマティスは、生涯の友となるジョルジュ・ルオーと知り合います。モローの勧めでルーヴル美術館に通って、古典の画家の模写に熱心に励みました。

 1894年には当時の恋人カロリーヌ・ジョブローとの間にマルグリットという女児が生まれますが、結婚には至りませんでした。マルグリットは1898年アメリー・パレイユと結婚した際に引き取って、のちに生まれたふたりの息子とともに5人家族として暮らします。

 1895年、26歳のマティスは念願だったエコール・デ・ボザールへの入学が認められ、正式にモローのアトリエに入ります。エコール・デ・ボザールでは、後にフォーヴィスムの仲間となるアンリ・マンギャン、ラウルデュフェらと親交を結びました。

 当時描いた絵に《読書する女》(1895年)があります。サロンに出品した4点のうちの1点で、国家買い上げとなりました。写実主義・バルビゾン派の画家ジャン=バティスト・カミーユ・コローの影響を指摘された作品です。

「野獣」と呼ばれるまで

 1896年以降、マティスはソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(国民美術協会)のサロンに作品を発表し、準会員にも選出されます。

 この頃、ブルターニュやコルシカなどを旅行したり、さまざまな画家と交流したりしたことで、印象派やゴッホゴーガンなどから影響を受け、その技術を学んでいます。1897年には画家であり絵画蒐集家のギュスターヴ・カイユボットの印象派のコレクションが公開され、マティスはカミーユピサロとともに見に行きました。これに影響を受け、その年のサロンに出品した《食卓》(1896-97年)には、印象派の影響が見て取れます。師モローの勧めで取り組んだ初めての大作でした。

 また、マティスは大好きなポール・セザンヌの小さな水浴図を、結婚指輪を売って手に入れ、心の支えにしていたそうです。1900年前後に描いた裸体画は、セザンヌの影響が顕著です。さらに同時期の裸体立体彫刻にはロダンの影響があるといったように、この時期マティスは同時代の画家からも多くを吸収していきました。

 そんなマティスが大きく画風を変えたのが《豪奢・静寂・逸楽》(1904年)です。タイトルはボードレールの詩集『悪の華』にある詩の一節からとったものです。1904年の夏、新印象派のポール・シニャックの南仏サン=トロペの家で過ごしたマティスは《サン=トロペの風景》という制作をしました。それをもとに新印象派の手法である点描を用いてこの作品を完成させます。

 印象派をさらに進めた新印象派は純色で細かい点を重ねて願いていく点描主義で、その代表者がジョルジュ・スーラです。スーラを継いだシニャックと出会い、新印象派の影響を受けて描いたのがこの作品です。ここにはセザンヌや新印象派のアンリ=エドモン・クロスなどの影響も見えます。「サロン・デ・アンデパンダン」という無審査の展覧会に出品したのち、この絵を評価したシニャックが購入しました。

 翌1905年夏、マティスは友人のアンドレ・ドランとともにスペイン国境近くの港町コリウールで過ごし、コリウールやその後パリで描いた作品を「サロン・ドートンヌ」(無審査の展覧会)に出品します(サロンについては、次回、解説します)。

 そのなかの1点《帽子の女》(1905年)は、夫人をモデルにした作品です。荒々しい筆遣いと強烈な色彩で、固有色にとらわれず髪の毛を赤、鼻筋を緑といったように人物とは関係のない色面で構成しています。同時期に描かれた《緑の筋のあるマティス夫人の肖像》(1905年)も夫人がモデルで、鼻筋を緑で描き、オレンジとグリーンという補色関係の強烈な色による背景の作品です。両作品はまさに「色彩の解放」という表現がふさわしいでしょう。

 この展覧会がきっかけとなり、《コリウールの港に浮かぶ船》などを描いたドラン、《運河船》などを描いたヴラマンクら仲間ととともに「フォーヴ(野獣)」と呼ばれることになります。批評家ルイ・ヴォークセルが、同じ部屋に激しい色調の作品が集められたことを「フォーヴ」と形容したのでした。

 文芸誌『ジル・ブラス』(1905年10月17日号)には次のようなヴォークセルの強い非難の言葉が掲載されています。

「部屋の中央には、アルベール・マルケの子供のトルソ像がある。上半身だけを見せたこの像の素朴さは、生のままの色の狂宴の真ん中にあって人目を驚かせる。それは、フォーヴ(野獣)に囲まれたドナテッロだ・・・」

 マティスらは自己主張のために、自然の色と形を思うままに変える権利を主張し、芸術性の追求のために制作される純粋絵画(=ファインアート)を生み出す芸術活動を目指しました。この色彩の対比やヴァルール(色と色との相関関係から生まれる色彩効果や質感)といった、色彩のバランスや力学による色の復権ともいえる彼らの表現運動が「フォーヴィスム」です。

 しかし、マティスはじめ芸術家たちは徐々に作品の形態を変えていき、数年後にはそれぞれの方向へ進むことになります。彼らは一定の主義や主張があったわけではないので、「フォーヴィスム」は一時期的な現象で終わりますが、今までの常識を打ち破るような新しい表現は、美術史において大きな役割を果たしました。

 この時期のマティスの代表作に《生きる喜び》(1905-06年)があります。セザンヌ的なモチーフを用い、影響を受けているところもありますが、完全にセザンヌから抜けだしています。当時、大批判を受けた大胆な色彩と空間の歪みなどの表現は、フォーヴから一転、新たな境地を示す作品となっています。

 

参考文献
『マティス 画家のノート』二見 史郎/翻訳(みすず書房)
『マティス (新潮美術文庫39)』峯村 敏明/著(新潮社
『もっと知りたいマティス 生涯と作品』天野知香/著(東京美術)
アンリ・マティス作品集 諸芸術のレッスン』米田尚輝/著(東京美術)
『美の20世紀 5 マティス』パトリック・ベイド/著 山梨俊夫・林寿美/翻訳(二玄社)
『「マティス展」完全ガイドブック (AERA BOOK)』(朝日新聞出版
『名画への旅 第22巻 20世紀Ⅰ 独歩する色とかたち』南雄介・天野知香・高階秀爾・高野禎子・太田泰人・水沢勉・西野嘉章/著(講談社
『西洋美術館』(小学館)         他

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