青江下坂(あおえしもさか)と名付けられた妖刀を巡る『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』。松本幸四郎の福岡貢(ふくおかみつぎ)で、歌舞伎座『三月大歌舞伎』夜の部にて上演中だ。「太々講」を含めた通し狂言として上演されるのは、歌舞伎座では62年ぶりのこと。今田万次郎に尾上菊之助、料理人喜助に片岡愛之助、油屋お紺に中村雀右衛門。さらに打ち出しの演目は、尾上松緑による舞踊『喜撰(きせん)』。充実の配役でおくる夜の部をレポートする。

一、伊勢音頭恋寝刃

『伊勢音頭恋寝刃』の中でも上演の機会が多いのは、貢がお紺に縁を切られる「油屋」の場、そして妖刀・青江下坂で事件を起こす「奥庭」の場だ。今月は通し狂言として、万次郎が青江下坂の証明書である大事な折紙を奪われてしまう「相の山」の場からお芝居が始まる。

『伊勢音頭恋寝刃』(左より)油屋お岸=坂東新悟、今田万次郎=尾上菊之助 /(C)松竹

『伊勢音頭恋寝刃』(左より)油屋お岸=坂東新悟、今田万次郎=尾上菊之助 /(C)松竹

まず花道に登場するのは、花がほころぶような笑顔の万次郎(尾上菊之助)。油屋のお岸(坂東新悟)からは“万さま”と呼ばれ上機嫌である。周囲への丁寧な態度や、ふとしたリアクションの上品な可笑しみ、奴林平(中村歌昇)のお小言にふてくされるさまには、つい笑顔にさせられる。御家のピンチにもまるで危機感がなく、そんなところさえ憎めないTHEつっころばしだった。

歌昇の林平は堂々と溌剌としていた。頼れる奴と見せかけて、あっさり悪党に騙される。悔しがる時さえ堂々と溌剌としており、観ている側のしっかりしてくれよという気持ちも明るく吹き飛ばされる。林平は「追駈け」から「地蔵前」の場では、杉山大蔵の大谷廣太郎、桑原丈四郎の中村吉之丞とともに観客をすっかり味方につけて楽しませた。3人が本舞台へ戻るころには、場内がとてもリラックスした空気に。そんな序幕に、中村又五郎の藤浪左膳が厚みを出していた。

歌舞伎座で62年ぶりの「太々講」

『伊勢音頭恋寝刃』(左より)叔母おみね=市川高麗蔵、福岡貢=松本幸四郎、正直正太夫=坂東彦三郎、猿田彦太夫=市村橘太郎 /(C)松竹

『伊勢音頭恋寝刃』(左より)叔母おみね=市川高麗蔵、福岡貢=松本幸四郎、正直正太夫=坂東彦三郎、猿田彦太夫=市村橘太郎 /(C)松竹

通し狂言になったことで、幸四郎の貢は頼もしい男だと伝わってくる。「二見ヶ浦」の場で迎える朝日には、独特のカタルシスがあった。歌舞伎座で62年ぶりとなる「太々講」は、貢の養父の住居が舞台となる。講とは、現在のように旅行が気軽ではなかった時代の団体旅行のようなもの。貢はかつては武士だったが、今は御師(おんし)と呼ばれる神官の職についている。伊勢講(お伊勢参りの講)の人々を迎え、伊勢神宮サテライト的に神事を行ったり、打ち上げ的な宴会の面倒をみたりする仕事だ。トボケ顔の神主・正直正太夫は坂東彦三郎。きっちり可笑しく楽しませつつ、大らかな悪さで貢のプライベートでの脇の甘さを引き出していた。貢と深い仲の油屋お紺(中村雀右衛門)は、貢に話をあわせつつ戸惑う姿がことに愛らしかった。叔母おみね(市川高麗蔵)の台詞からは、貢に短気な一面があることも知れた。「太々講」では、貢の油屋お紺への好意が決して一方的なものではないこと、貢が決して大富豪ではないのにお金を費やしていたことなど、楽しいお芝居の中に「油屋」への布石となる情報が散りばめられた一幕だった。

「油屋」から「奥庭」へ

「油屋」でのエピソードは、寛政年間に伊勢で起きた実際の事件が題材となっている。舞台には、個性的な登場人物が続々と登場するが、心の拠り所は料理人喜助(片岡愛之助)。貢への敬意があり機転も利く。喜助を主役に一幕見たくなる頼もしさだった。油屋お鹿(坂東彌十郎)は、まっすぐな心で観客を味方につけて貢を困らせる。脳内の縮尺が混乱するくらいカラダが大きかった。中村魁春の仲居万野はチクチクした攻撃で客席に笑いを起こしつつ、貢を容赦なく追い詰める。そこへきてのお紺からの愛想尽かしだ。堪えに堪えた貢の煙管が落ちた時、お座敷はその音が聞こえるくらい静まり返っていた。心が割れた音のように聞こえた。お芝居の空気がガラッと変わる。その後、最悪のタイミングで青江下坂の鞘が壊れてしまい……。

『伊勢音頭恋寝刃』(左より)仲居万野=中村魁春、福岡貢=松本幸四郎、油屋お岸=坂東新悟 /(C)松竹

『伊勢音頭恋寝刃』(左より)仲居万野=中村魁春、福岡貢=松本幸四郎、油屋お岸=坂東新悟 /(C)松竹

鞘が割れたのは、刀身を付け替えた時に無理におさめたせいかもしれない。貢は強いストレスによる心神喪失と言われる状態なのかもしれない。解釈の余地はありつつも、万野を斬り捨てた後の貢は、やはり妖刀にあやつられているようで、その後ろから伊勢音頭がゆったりと聞こえてきて、きれいで酷い夢でも見ているようだった。

『伊勢音頭恋寝刃』(左より)料理人喜助=片岡愛之助、福岡貢=松本幸四郎、油屋お紺=中村雀右衛門 /(C)松竹

『伊勢音頭恋寝刃』(左より)料理人喜助=片岡愛之助、福岡貢=松本幸四郎、油屋お紺=中村雀右衛門 /(C)松竹

「奥庭」では、お揃いの浴衣の女たちが舞台いっぱいに並び伊勢音頭を踊る。人殺しだ! の声で一度夢から醒めかけるが、障子を打ち破り貢が出てくると、再び現実感のない夢が続く。踊るような立廻りに、怖さや残酷さへの感覚が麻痺して、貢の乱心狂気に見惚れた。当の貢がどれほど恐ろしい顔をしているのかと思えば、怒りや殺意はなくただただ美しい顔だった。やはり妖刀のせいだと思わずにいられなかった。少し寂し気にも見えた。古風なトランス状態に浸り、幕切れは歌舞伎ならではの力業のハッピーエンドで結ばれた。歌舞伎だから成立する、通し狂言だからこその没入感の『伊勢音頭恋寝刃』だった。


二、喜撰(きせん)

『三月大歌舞伎』の打ち出しは舞踊『喜撰』。平安時代の歌人が登場する舞踊『六歌仙容彩(ろっかせんすがたのいろどり)』の四景にあたる。

『六歌仙容彩 喜撰』喜撰法師=尾上松緑 /(C)松竹

六歌仙容彩 喜撰』喜撰法師=尾上松緑 /(C)松竹

尾上松緑の喜撰法師が、桜の枝を手に花道へ。枝にはひょうたんが結いつけられている。上質なお酒の匂いが広がるような華がある。本舞台で登場する古風な被衣の女性は、小野小町かと思いきや、茶汲女のお梶(中村梅枝)。お梶がお酌をすれば、舞台照明が変わったわけでもないのに、行燈の光に包まれるような色っぽい空気になった。松緑は、ストイックとは真逆を行く俗っぽい坊主を、品と清潔感のある踊りで洒脱につとめる。音羽屋! の大向うが心地よくかかる。

『六歌仙容彩 喜撰』(左より)喜撰法師=尾上松緑、祇園のお梶=中村梅枝 /(C)松竹

六歌仙容彩 喜撰』(左より)喜撰法師=尾上松緑、祇園のお梶=中村梅枝 /(C)松竹

『六歌仙容彩 喜撰』祇園のお梶=中村梅枝

六歌仙容彩 喜撰』祇園のお梶=中村梅枝

後半には、大勢の所化がずらりと登場。揚幕から河原崎権十郎を筆頭に、中村松江、坂東彦三郎、坂東亀蔵、中村萬太郎、中村種之助、中村鷹之資、中村玉太郎、尾上左近、中村吉之丞。片肌を脱ぐと舞台には桜色が横溢。にっこにこで踊る所化もいれば、お行儀のよい所化もいる。新世代の坂東亀三郎、尾上眞秀、小川大晴の元気な舞台姿も観客を笑顔にした。清元と長唄の掛け合いに、桜吹雪を眺めるような春らしい高揚感に包まれて幕となった。

『六歌仙容彩 喜撰』(前列左より)所化=尾上眞秀、所化=小川大晴、所化=坂東亀三郎 /(C)松竹

六歌仙容彩 喜撰』(前列左より)所化=尾上眞秀、所化=小川大晴、所化=坂東亀三郎 /(C)松竹

『六歌仙容彩 喜撰』(中央)喜撰法師=尾上松緑 /(C)松竹

六歌仙容彩 喜撰』(中央)喜撰法師=尾上松緑 /(C)松竹

『三月大歌舞伎』は2024年3月3日(日)より26日(火)までの上演。昼夜ともに充実の配役の1ヶ月を見逃さないでほしい。

取材・文=塚田史香

『伊勢音頭恋寝刃』(左より)福岡貢=松本幸四郎、今田万次郎=尾上菊之助