現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売前から注目を集めている。

巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。

(以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

◆〜西武ライオンズ時代・工藤公康の証言(前編)〜
ドラフト6位での強行指名

一九八四年六月下旬、雨の音が湿っぽくも耳に馴染む梅雨の真っ只中、ペナントレースも三分の一を消化した頃だ。監督室の椅子にもたれかかっている広岡達朗は、抑揚のない低い声で突き放すように言った。

「工藤、今季からアメリカで修行してこい」
「え アメリカですか?」

思いもよらぬことだっただけに、どんぐり眼の工藤公康はさらに目を丸くさせた。

「以上だ。後はマネージャーに聞け」

これ以上何も聞くなという雰囲気を醸し出し、広岡は書類に目を通すため顔を伏せてしまった。仕方なく工藤は「はい」と小さい声で返事しながら監督室のドアを開けた。

「アメリカで修行って言ってたけど、アメリカ留学ってことだよなぁ」

〝アメリカ〟という単語に戸惑いを見せる工藤だったが、留学への不安というより今シーズンはもう必要ないという烙印を押されたショックのほうが隠しきれない。西武球場内の薄暗いスロープに、スパイクの歯が立てるカチャカチャという金属音が耳障りに響くのだった。

工藤公康名古屋電気高校(現愛工大名電)のエースとして、ストレートと縦に落ちるカーブを駆使し、八一年夏の甲子園二回戦の長崎西戦で16奪三振ノーヒットノーラン。一躍脚光を浴び、ベスト4まで進出した。この活躍によって超大型左腕としてドラフトの目玉となるはずだった。しかし、工藤は甲子園大会後、早々と高校卒業の進路として社会人野球チームの熊谷組入りを決めた。いわゆるプロ入り拒否の意思である。

広岡はドラフト前夜に、根本管理部長と最終打ち合わせをしていた。

「根本さん、今年のナンバーワンピッチャーはズバリ誰ですか?」
「名電の工藤だろうな。でも彼は熊谷組に決まっている」
「一応、交渉の権利だけ取ってくれませんか」

広岡の言いたいことをすぐさま理解し、根本も即答する。

「わかった。他の球団も指名して来ないだろうから、最後の枠で指名しよう」

こうして西武ライオンズドラフト六位で工藤公康を指名した。

この工藤への指名は、巷では根本の囲い込みだ、西武包囲網だと揶揄された。もし、出来レースだとしたら、本人のプライドを考えて下位での指名ではなかっただろう。指名後の入団交渉も熊谷組と西武側でいろいろ調整が大変だったと聞く。出来レースであれば、こんなことはないはずだ。実際に、早くから社会人熊谷組に行くと表明していた工藤はプロに行く気などさらさらなかった。だがドラフトから数日が経った夜に、根本が工藤家に訪れた。晩飯を食べ酒を酌み交わしながら、父・光義と意気投合して話し込んでいる。

「おい、起きろ!」

父・光義の声がする。「なんだ?」。時計を見ると夜中の三時だ。

「おい、公康、お前プロに行け!」

無理矢理叩き起こされた工藤が寝ぼけ眼で見ると、上機嫌で酔っ払っている父・光義は真っ赤な顔して「いいな、西武へ行け」と叫んでいる。

「うん、わかった」

工藤は眠くて仕方がなかったため、生返事をして再び床についた。結局、工藤は熊谷組ではなく西武ライオンズを選んだ。

◆「こいつは二軍に置いていたらだめだ」広岡の決断

「いいカーブ放るな」

自主トレ中のピッチングを見て、広岡は一目で工藤は使えると感じた。

工藤カーブは、〝うまく目の錯覚を起こしながら投げる変化球〟と自ら言うだけあって、一瞬浮き上がるような軌道を描く。バッターとピッチャーとのちょうど中間あたりで 一気に急降下するため、パッと視界から消えるような感覚に陥る。工藤自身もどれくらい曲がっているかはわからない。その日の打者の反応を見て大体の球筋を予測する。

広岡は、自主トレ期間、春季キャンプと工藤をじっと観察し性格を分析していた。

「こいつは、二軍に置いていたらだめだ。小利口だから周りに合わせてしまう。一軍で俺のもとで育てよう」

スタッフ会議の場でそう公言した。広岡がピッチャーを技術的に分析する際にまず見るのはフォームだ。変則でも自分に合った投げ方をしていればいいが、肩肘に負担がかかる投げ方ならば二軍からスタートだ。次にスタミナ、そしてメンタルだ。ストレートや変化球はプロに入るレベルなのだから一定水準は満たしている。そのうえでピッチャーは健康で長持ちできることがまず先決。工藤は、実に理に適った投げ方をしていた。

高卒ルーキーながら即一軍で通用するカーブを持っていた工藤を、左打者のワンポイントとして起用することを決めた。マウンド度胸もあり、一級品の球を持つこの男を〝坊や〟と呼び、広岡は可愛がった。怖いもの知らずというか、マウンド度胸があるというか、ちょっとやそっとじゃ物怖じしないタイプ。それこそが工藤公康の真骨頂だった。

シーズン中、藤井寺球場で近鉄の四番栗橋茂に対して頭部へデッドボールを与えたことがあった。球場はスタンドの近鉄ファンの野次で大騒ぎ。工藤が「すいません」と帽子を取って詫びる間に、ベンチの広岡が大声で「工藤もういい、こっちこい、降りろ」とピッチャー交代の合図をした。

昔はすぐに乱闘になるため、こうして場が荒れ始めると早めの継投策で投手を逃すしかなかった。それでも工藤は、初めて見る騒然とした光景を珍しそうに「へえ〜」といった顔で見回していた。

大阪球場での南海戦では、四番門田博光に対して胸元へ投げて身体を仰け反らせた。すると、門田が鬼の形相でずっと工藤を睨み威嚇する。「こえぇ〜」と思いながらも、次もインサイド低めに投げると、今度は門田がさらに鋭い目つきでバットをかざして「外を投げろ」と指示する。「ええ〜」と思いながらも工藤は平然と無視してサイン通りの球を投げた。まさに昭和の野球だ。

ルーキーイヤーは、27試合に登板し、1勝1敗、防御率3・41。ワンポイントの登板が主ではあるが、高卒新人としては上々だ。そして、二年目、新人王候補の筆頭とされ、春先のキャンプでも期待の若手として大いに期待されたが、シーズンに入ると中継ぎ専門となり、23試合登板で2勝0敗、防御率3・24。そして、運命の三年目を迎えることとなる――。

(次回に続く)

※工藤公康も出場する西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」が3月16日(土)にベルーナドームにて開催予定。

【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

―[92歳、広岡達朗の正体]―


『92歳、広岡達朗の正体』が3月14日に発売