自動車のトップメーカーの栄枯盛衰は、豊かさと安定の指標、そして国際政治の動向を色濃く反映しています。中でも80年代は、バブル経済によって自動車産業も大きく動いていきました。自動車評論家の鈴木均氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、80年代における日本のクルマ事情について詳しく見ていきましょう。

先進国では国有化したメーカーを民営化し、財政を削減

80年代東側諸国だけではなく、西側先進国においても大きな変化が訪れた。アメリカのロナルド・レーガン大統領イギリスマーガレット・サッチャー首相、日本では中曽根康弘総理が大胆な規制緩和を行い、国有事業を次々に民営化し、福祉国家に代表される国家財政を削減した。大きな政府による充実した福祉国家から、「無駄な」政府支出を削減して小さな政府を目指す、いわゆる新自由主義が流行した。イギリスは国有化したメーカーを順次民営化して復活の糸口をつかんだ。

日本では85年4月、電電公社が民営化されNTTに、日本専売公社はJTとなった。87年4月には国鉄がJR各社に分割民営化された。なお日本道路公団分割民営化は、郵政民営化とならび、小泉改革の一環として実施された2005年10月のことである。

サッチャー首相がなぜ日系メーカーのイギリス工場開設を熱烈に求めたのかは諸説あるが、一つはイギリスの部品サプライヤーに日系メーカーへの納品をとおしてテコ入れし、これによって国有化していたメーカーの株価を売却前に上げることを狙ったと言われている。完成車の組み立て工場と地元サプライヤーが生き残れるならば所有者は外資でかまわないという、ドライな発想である。

BL(ブリティッシュ・レイランド)傘下のブランドも、販売面で全滅していなかった。70年にランドローバーの高級版としてレンジローバーが登場し、近年、活況を呈している高級SUVという新しいジャンルに手を伸ばした。80年には待望のミニの後継車、メトロが発売され、すぐにイギリスで最も売れる小型車となり、婚前の故ダイアナ妃(ダイアナスペンサー)も愛用していた。ただし、目立ったヒット車はこれくらいだった。BLはオースチン・ローバーと改称し、経営陣は目まぐるしく変わった。

BLを最も早く抜けたのが、84年に民営化されたジャガーだった。くしくも同年、BLとホンダの協業で売られていたトライアンフアクレイムホンダバラード)が生産終了に追い込まれ、BL下の多くのブランドが姿を消した。86年にオースチン・ローバーの名前からオースチンが消され、88年にローバーは航空機・防衛大手のBAe(現:BAEシステムズ)に売却された。

ちょうどこの頃に開発されたのが、86年に登場したローバー800/ホンダ・レジェンドだ。V6エンジンの開発費を節約したいローバーと、北米市場で売る最上級車が欲しいホンダの思惑が一致したコラボだった。タカタとの共同開発により、レジェンドは日本車で初めて運転席用エアバッグを装備した車となった。ホンダが開発したV6エンジンはその後、同社初のスーパーカーNSXに搭載される。なお、ローバーのコベントリー工場で組み立てられたレジェンドホンダの品質検査に落第し、北米輸出が叶かなわなかった。北米向けレジェンドは、日本から輸出された。

他方、73年に航空・船舶エンジン部門と切り離されたロールス・ロイスは、80年にビッカースへ売却され、傘下の姉妹ブランド、ベントレーが元気を取り戻した。ロールス車をお色直ししただけのベントレー車はほとんど売れていなかったが、八五年に登場した独自開発のターボRが、戦前以来のヒット車となり、ロールスの姉妹車シルヴァースパーやシルヴァースピリットよりも売れた。ビッカースは98年にロールス・ロイスを売却し、ベントレーはVW、ロールスはBMWからエンジンの供給を受けて現在に至る。

インドの将来性に賭けたのが「スズキ」だった

日米英で小さな政府を目指す動きが活発化するなか、そのような質素倹約を是とするメーカー、スズキが大きく躍進したのは、単なる偶然ではないだろう。以下でその軌跡を紹介したい。

スズキは1909年創業の織機メーカーが前身である。1952年自転車補助エンジンのブームに乗ってオートバイ開発に着手し、55年に四輪軽自動車に進出した。スズキは73年から2006年まで、軽自動車の販売台数が日本一だった。

1981年8月、スズキは米GMと提携し、この頃から黄金の拡大期に突入した。先立つ78年に鈴木修が社長に就任し、国内で蓄積した小型車のノウハウを武器に、81年2月にインド政府と合弁会社マルチ・ウドヨグを立ち上げた。当時インドの総人口は約7億人だったが、GDPは衰退するイギリスの半分に満たず、人口約2500万人規模のカナダにも及ばなかった。

インドの初代首相、ジャワハルラル・ネルーの孫にあたるサンジャイ・ガンジーは、国民車構想を実現するため71年にマルチを創業したが、80年に航空機の事故で死去してしまった。彼の事故死に伴い、同社は81年2月に国有化され、マルチ・ウドヨグに社名を改めて提携先を探した。日系メーカーが貧しい大国を歯牙にもかけないなか、スズキインドの将来性に賭けた。

83年10月、スズキ・アルトをベースにしたマルチ800がラインオフして市場を席巻し、インドの国民車となった。マルチ・ウドヨグは輸入独占権も得て、インドスズキ車の独壇場となった。85年には四駆車、そして86年からはアルトも生産するようになり、ヨーロッパ向けに輸出を開始した。これがハンガリー進出の足掛かりとなり、今日に至る。他社がバブル経済に浮かれ、大きく豪華絢爛な車に手を広げるなか、スズキは得意分野で徹底して「小さく」勝負した。

「プラザ合意」によりバブル経済に突入

80年代中盤になると、日系北米工場がほぼ出そろった。トヨタ、日産、ホンダのアメリカ工場設立に続く形で、85年にはマツダフォードと三菱・クライスラー、87年にスバルいすゞの現地生産会社が設立された。

80年代は軍事的な緊張が高まった一方、先進国の間でも経済対立が先鋭化した。レーガン大統領は、日本や西欧諸国の貿易黒字がアメリカ経済に打撃を与えていると非難し、解消を強く求めた。85年9月、日米英独仏の蔵相は極秘にニューヨークのプラザホテルで会合し、協調してドル安介入を行うことで合意した。プラザ合意である。先進国の中央銀行が一斉に手持ちのドルを売り、自国通貨を買い戻した。直前まで円ドル相場は1ドル240円近辺で推移していたが、一夜にして20円近く円高になり、1年後には150円台となった。

当然、日本国内は大騒ぎになり、バブル経済に突入することになる。急激な円高により、海外旅行費用が突如半額に落ちたと想像してほしい。たとえば輸入車の値段が夕方のデパ地下のごとく半額近く値引きされたとしたら、早く買わなければ損である。まさに「泡」のごとく、突如経済が沸きたった。広末涼子主演映画『バブルへGO!!』を見ると、その狂乱ぶりの一端を疑似体験することができる。

実際のところ、ブランド・イメージもあるため、輸入高級車は大きく値引きされなかった。むしろプレミアが付き、それでも飛ぶように売れたのが、バブル経済だった。日本の消費生活は突如、意図せず、準備もないまま、急速に国際化することとなった。BMW3シリーズとベンツ190Eが、陸揚げされるやすぐに売れた。そして両車は六本木のカローラ、赤坂のサニーと呼ばれるくらい都内に溢れた。

BMW3シリーズは同社の主力商品であり、75年に登場して以来、ベンツではないスポーティーな選択肢が欲しいユーザーのニーズに応えてきた。81年にBMWの日本法人が立ち上がると、3シリーズは主力商品になった。85年には、ベースモデルに徹底的に手を入れたM3が発売され、本国のDTMツーリングカー選手権)でベンツ190Eと激戦を繰り広げた。バブル経済が輸入車を身近な存在にした功績は大きい。国際的に非難を浴び続けた日本の貿易黒字を(少し)減らす作用もあった。

「オプション」だったエアバッグが、徐々に標準装備に

バブル経済の沸騰と消費生活の国際化は、日本車のモノづくりにも影響を与えた。それまでは贅沢品だった装備が、オプションではなく、標準装備となりはじめた。

自動車用のエアバッグの特許は、52年にアメリカ、53年にドイツで取得された。しかし当時のエアバッグは圧縮空気で展開したため、乗員を保護できる早さで開かなかった。これを現在のように火薬によって瞬時に展開できるよう63年に発明したのが、小堀保三郎だった。小堀は栃木県出身、小学校卒業後に奉公に出て以降、全て独学で学んだ努力の人だった。14ヵ国でエアバッグの特許を取得したが、肝心の日本では火薬の使用が消防法に抵触し、採用されなかった。資金難に陥った小堀は、75年に夫婦で心中している。世界的な発明は、母国で孤立無援のまま見殺しにされたのだった。

その間、アメリカでは小堀に似た発想で研究が続けられ、GMが73年、政府に納入するシボレーインパラにエアバッグを装備した。GMは翌74年に高級車トロネードに乗員保護用も含むエアバッグを装備した。52年の特許も海軍エンジニアによる発明であり、国防面での使用が前面に出ていた。エアバッグの世界的な普及は、小堀の取得した特許の期限が切れた後だった。

1980年、満を持してベンツがSクラスにオプションでエアバッグを装備した。ベンツはエアバッグの展開とシートベルトの締め上げを連動させ、GMのような補助的な位置付けではなく、統合されたシステムに昇華させた。ベンツは、取得した特許を無償公開した。ボルボがシートベルトの特許を無償公開したエピソードを彷彿とさせる。

エアバッグは当初はSクラスの上級グレードのオプション装備だったが、徐々に標準装備となった。190Eも本国では登場時(82年)からエアバッグを装備していたが、日本の法律でエアバッグ装着車の輸入が許可されたのは、ようやく87年になってからである。すでに米独で消費者保護の十分な実績があったものを何年も排除し続けた姿勢には、疑問を抱かざるをえない。しかも、それは日本人の発明だった。

エアバッグを初めて装備した国産車は、87年のホンダ・レジェンドである。85年の登場後、北米向けのレジェンドは86年からエアバッグを装備していた。火薬法の改正もあり、その後エアバッグは各社が採用するようになった。90年に登場した二代目レジェンドは、日本で初めて助手席エアバッグを装備した。こうして助手席エアバッグ、膝ガード、側面エアバッグなど、乗員保護の技術は進歩していった。室内上部に展開するカーテンエアバッグを世界で初めて装備したのは、98年に登場したトヨタ・プログレである。

鈴木 均 合同会社未来モビリT研究 代表

(※写真はイメージです/PIXTA)