画風を次々に変え、作品のヴァリエーションも多いマティスを理解するのはなかなか難しいでしょう。今回はデビューした30歳代から50歳代まで、画家としての前半生を、3つのキーワードに沿って紹介します。ここからマティスの真の姿が浮かび上がります。

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文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

マティスと当時の「サロン」

 まず、マティスのデビューや成功とも深い関わりがあり、当時の美術界で大事な役割を果たしたサロンについて解説しましょう。

 フランスサロンの歴史は17世紀、王立アカデミーに付随する公式の展覧会「サロン(官展)」が発足したことにはじまります。当初、アカデミー会員以外は参加できなかったのですが、1789年フランス革命によって制度が変わり、会員以外の芸術家でも審査を通れば参加できるようになります。

 しかし、審査が厳しかったため1863年、エドゥアール・マネの《草上の昼食》(1862-1863年)など、サロンに拒否された画家たちの作品が出品されて話題になった「落選者展」や、1874年に始まった「印象派展」が開催されるようになります。1881年にサロン(官展)が国家の直接の運営を離れたことから組織がふたつに分かれ、国民美術協会の「ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール」が設立されます。ここには初めて、工芸部門も設けられました。

 無審査で参加ができる展覧会として1884年「サロン・デ・アンデパンダン」が、1903年には「サロン・ドートンヌ」が創設されます。「サロン・ドートンヌ」は「秋のサロン」を意味するフランス語で、春に開催される「サロン(官展)」に対抗してマティスやルオー、ナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤールらによって組織された展覧会です。

サロン・デ・アンデパンダン」とともにフォーヴィスム、キュビスムなど、新しい画家たちの登場の場となりました。また両サロンは、スーラ、セザンヌ、ゴーガンなどの回顧展を催して若い画家に伝え、近代美術の展開に重要な役割を果たしました。

 マティスは1901年から「サロン・デ・アンデパンダン」に、1903年から「サロン・ドートンヌ」に出品し、前回紹介したように1905年の「サロン・ドートンヌ」でフォーヴとして注目されました。

 

「パトロン」によって生み出された傑作

 1905年に開催された「サロン・ドートンヌ」にマティスが出品したフォーヴィスムの代表作《帽子の女》(第1回参照)を購入したのは、美術コレクターのレオ・スタインでした。画家を目指していたレオ、小説家の妹ガートルート、長男のマイケルのスタイン兄妹は、パリで暮らす裕福なアメリカ人です。世間では悪評だったマティスの作品を美術界で有名だった彼らが多く購入したことから、ほかの画商やコレクターもマティスに注目するようになります。

 マイケルの妻サラはマティスに画塾を開くことを勧め、援助をしています。この「マティス・アカデミー」には諸外国からが学生が1000人も集まりましたが、マティスは自分の制作に集中するため数年で閉じてしまいました。また、スタイン家で知り合ったアメリカのコーン姉妹は、マティスの晩年まで長期にわたり作品を買い続け、所有していた約40点の油彩画などをボルチモア美術館に寄贈しました。

 ロシアの実業家セルゲイシチューキンとイヴァン・モロゾフもマティスの有力なパトロンとなります。とくに1908年以降、シチューキンは最大のパトロンとなり、自邸のために注文した壁画《ダンスⅡ》(1909-10年)、《音楽》(1910年)はじめ、《画家の家族》(1911年)のほか、モロッコ旅行によって触発されて描いた「モロッコ三部作」など、重要な作品の数々がシチューキンの資金援助に支えられて生み出されました。ロシア革命で財産を失って亡命するまでの約10年間で、37点を購入しています。

 このようなパトロンたちに支えられ、その注文に応えることによって、マティスは新しい挑戦を続けることができたといってよいでしょう。

 マティスは海外の評判は得ても、フランスではなかなか評価されませんでした。しかし1909年、ようやくパリのベルネーム=ジュヌ画廊と専属契約を結ぶことができます。

 19世紀末から20世紀末にかけて、画商は芸術動向に影響を与えていました。その一つがベルネーム=ジュヌ画廊で、新進芸術家をプロデュースするなどして新たな芸術の動向に深く関わり、パリにおけるマティスの芸術の展開に画廊はなくてはならない存在でした。ベルネーム=ジュヌ画廊との専属契約により、国内でも徐々にマティスの評価が高まりました。

  余談ですが、1934年頃からマティスの晩年まで、モデルと制作助手をつとめたロシア人のリディア・デレクトルスカヤは、マティスの死後、膨大な作品を託されています。これらをエルミタージュ美術館とプーシキン美術館に寄贈したことで、ロシアは世界有数のマティスコレクションを所有することになったのでした。

「旅」がマティスに与えたもの

 第1回で紹介した《豪奢・静寂・逸楽》がシニャックと南仏サン=トロペで過ごしたことで生まれ、《帽子の女》《生きる喜び》がアンドレ・ドランと過ごしたコリウールで生まれたように、マティスは芸術家たちとの出会いと「旅」よって次々と作風を変化させていきました。代表的なものを紹介しましょう。

《青いヌード—ビスクラの思い出》(1907年)は、1906年に旅行した北アフリカアルジェリアのビスクラでスケッチした植物が描かれていることからこの画題が付けられました。「横たわる裸婦」というテーマは美術史において脈々と続いてきましたが、ここではアフリカ的な女性ということで、レイシズム(人種を差別し、一方の人種に優越性を認めようとする人種主義)として批判もされます。しかし、このような多様性のある裸婦像を描いたこともマティスの特徴です。

 19世紀、帝国主義的な社会的状況もありフランスではオリエンタリズムが興り、20世紀に入ってもその影響がありました。1912年、43歳のマティスも二度にわたってモロッコのタンジールに長期滞在して制作活動をしました。ドミニク・アングルやウジェーヌ・ドラクロワなどの画家たちもモロッコを訪れ、作品を残しています。フォーヴの仲間シャルル・カモアン、マルケ、ヴァン・ドンゲンなどもモロッコに赴き、マティスの1年後にはスイスの画家パウル・クレーも同地を訪れています。

 マティスはこのモロッコ滞在で静物画のほか民族衣装の男女や風景画を描き、これまでと作風を変えています。代表作が「モロッコ三部作」と呼ばれる三連画(1912-13年)で、左から《窓から見た風景》《テラスにて》《カスバの門》という作品です。

 祭壇画のような三連画という形式をとり、一見関係ないようなモロッコの風景を合わせつつ、色面と色面が幾何学的な構成になっているという、たいへん奥深い作品です。

 ブルーやピンク、グリーンといった透明感のある穏やかな色使いで、奥行きを希薄化させて感じさせないという平面的な描写、抽象化した光の表現など、モロッコで描いた作品群はマティスが新しい局面を迎えたことを感じさせます。

モロッコ三部作」は帰国後に開いた展覧会で、ロシアイワン・モロゾフが購入しました。

 このほかイタリアスペインドイツイギリス、アメリカなど欧米諸国のほか、モスクワ、タヒチなど世界各地を巡ったマティスは、旅で刺激を受け、自らを成長させました。

 

参考文献
『マティス 画家のノート』二見 史郎/翻訳(みすず書房)
『マティス (新潮美術文庫39)』峯村 敏明/著(新潮社
『もっと知りたいマティス 生涯と作品』天野知香/著(東京美術)
アンリ・マティス作品集 諸芸術のレッスン』米田尚輝/著(東京美術)
『美の20世紀 5 マティス』パトリック・ベイド/著 山梨俊夫・林寿美/翻訳(二玄社)
『「マティス展」完全ガイドブック (AERA BOOK)』(朝日新聞出版
『名画への旅 第22巻 20世紀Ⅰ 独歩する色とかたち』南雄介・天野知香・高階秀爾・高野禎子・太田泰人・水沢勉・西野嘉章/著(講談社
『西洋美術館』(小学館)         他

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