現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売前から注目を集めている。

巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。

(以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

◆〜西武ライオンズ編 工藤公康 後編〜
米国で目の当たりにした“ハングリー精神”

いよいよ三年目、監督の広岡達朗は若手のホープとして工藤公康に一番期待をかけていた。しかし、思うような結果が出ない焦りからか、工藤はカーブの精度も悪くなり、何より自信を喪失しかけていた。ここで荒療治をしないと、坊やは坊やのまま終わる。そう感じた広岡は、わずか9試合のみ登板させた後、七月半ばにカリフォルニアリーグ1Aのサンノゼ・ビーズに野球留学させた。引率には二軍バッテリーコーチ和田博実がついた。和田といえば、西鉄ライオンズ黄金期稲尾和久バッテリーを組んでいたキャッチャーだ。

「ええか、工藤、アメリカ行ったらよう見とけよ」

若い盛りの工藤は、やんちゃなことをしては和田によく怒られた。口うるさい叱咤は、工藤が大きく育つようにと願う和田の親心のようなものだった。

カリフォルニアリーグは、八月いっぱいまで。「アメリカだろうとメキシコだろうと同じ野球をやるんだ」。すべてを強烈に照らす西海岸の真夏の太陽のもと、工藤は萎縮することなく息巻いていたが、そう簡単にことは運ばなかった。

長時間のバス移動は当たり前、微々たるミールマネー(食事代)のため食事は質素。草野球場に毛が生えた程度のスタジアム。日本での自分はつくづく恵まれているんだと実感した。日本では寮に入れば冷暖房完備だし、アルバイトをして生活費を稼ぐ必要はない。寮の食堂に行けば飯はたらふく食べられる。かつては、高卒だったら大体五年間は面倒を見てくれるという不文律があったため、その期間は、完全に野球に没頭できる環境を与えてくれる。しかし、ここはアメリカだ。一週間や一〇日で結果が出なかったら、どんどんクビを切られていく。

カリフォルニアリーグとは、メジャー、3A、2A、1Aのなかの一番下に属するリーグ。かつては1Aを二つや三つ持っていた球団もあった。

工藤は、リリースされた選手各々に挨拶がてら今後のことを聞いてみると、全員が同じことを言うのに驚いた。

「なんで辞めなきゃいけないんだ。俺はたまたま今回、結果が出なかったけど、決して能力がないわけじゃない。俺はやればできる人間なんだ。今回はたまたまそうなっただけで、 また練習して、必ずメジャーに上がってアメリカンドリームを手に入れるんだ。俺はそれだけのことをできる人間なんだ」

自分のことを、何の疑いもなく強く信じている。

「こういう思いでベースボールをやっているのか……」

彼らの強い覚悟と意志に、工藤は衝撃を受けた。工藤にとってそれまで飯を食う手段が野球であって、野球をしてどうこうしたいという明確な目的がなかった。

「こんな漫然と野球をやってる自分ってどうよ……」

自問自答した。1Aの選手たちが日に日にリリースされる姿を見て、生きることは試練だとつくづく感じた。

工藤の小利口の特性は、先を見通せる力がある分、どこか冷めた目で物事を見てしまう。表向きの物怖じしない性格はひとつの側面であって、現実を俯瞰することで見切ってしまう自分もいた。

物怖じしない姿を見せていた工藤だが、実のところ、プロに入った当初はあまりのレベルの差を感じ興冷めしていた。自分のすぐ上に誰々がいて、その下が誰々で……俯瞰して物事を見る性格ゆえ、自分が今どの位置にいるかも工藤にはわかった。一軍でバリバリ投げるためにはローテーションピッチャー以外の全員を抜いていかなくてはならない。そんなのは土台無理な話だし、何年か経ったらトレードで出されて一、二年で終わるんだろうなと、どこかで自分を見切っていた。一年目から一軍で投げさせてもらったといっても、左のワンポイントでデータがないルーキーだったからであり、本当の意味で通用しているとは思っていなかった。

◆工藤は心に訴えかける「俺はどうしたいんだ? 何をやりたいんだ?」

1Aで頑張るマイナー選手たちのひたむきなプレーとメンタルに心を揺り動かされた工藤は、ここでようやく本気になって自身を見つめ直した。

「俺はどうしたいんだ? 何をやりたいんだ?」

俯瞰して考えるのではなく、自らの心に訴えかけた。

その答えさえ出れば、あとはその目的のためにどうすればいいのか逆算していけばいい。そして何よりも、己を信じること。その地域地区の天才たちが集まっているのがプロの世界。能力が高いやつの集団であることくらい最初からわかっている。高卒ルーキーとして一軍で少し投げさせてもらっただけで、まだ何もしていないのに諦めている自分が小っ恥 ずかしくなった。

このときから周りを見なくなり、己を信じてトレーニングに没頭した。今までは「これぐらいやっとけばいいか」とどこか余力を残していたが、「まだまだ」と自分を追い込むようになった。スポンジが水を吸収するように技術が伸び、プロ入り時と比べて三年目のシーズン終了後には最高球速が10キロ以上アップした。

カリフォルニアリーグが終了し、いったん帰国して一〇月からアリゾナの教育リーグにも参加した。引率者は同じくコーチの和田だ。「工藤の顔つきが変わった。カリフォルニアで何か摑んだな」。和田は工藤を一目見てすぐに感じた。

〝坊や〟と呼ばれてヘラヘラしていた男が一皮剝けようとしている。一カ月半の教育リーグも終わり、心身ともに逞しくなって帰ってきた工藤は、秋季キャンプが終わっても、オフ返上で引き続きトレーニング を続けた。

一二月二七日、年内最後のトレーニングとして第三球場で二つ下の渡辺久信と一緒に投 げ込みをやった。「バシッ!」「ナイスボール」。ブルペンキャッチャーが心地よいキャッチ音を鳴らし、タイミングよく声をかけてくれる。ボールへの指のかかりもよく、腕もよく振れている。ボールが走っているのが自分でもわかる。

「やっとプロらしい球を投げるようになったな」

後方から声が聞こえ、振り返るとトレンチコートを羽織った広岡の姿があった。「監督!」。工藤はびっくりして声を出す。

「続けろ」
「はい」

工藤は反射的に答えた。

工藤と渡辺はアイコンタクトをし、互いに熱のこもったピッチングを披露した。工藤は、褒められたあとに正直ガッツポーズしたい気持ちだった。

この年の暮れの第三球場で、工藤と渡辺の若きエース候補たちが切磋琢磨して投げている姿を見て、広岡は若干口元が緩んだ。

「こいつらが来年、投手陣の柱になれば間違いなく優勝できる」

第三球場の外野の芝は茶色く枯れ上がっているけれど、春になれば青々とした芝に生え変わる。ベテランの力に頼って優勝を手にしたが、本当の意味で西武ライオンズが誕生するのは、来年からだ。乾いた空気を切り裂くように二つのミット音が交互にテンポよく鳴り響くのであった。

(次回へ続く)

※工藤公康も出場する西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」が3月16日(土)にベルーナドームにて開催予定。

【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

―[92歳、広岡達朗の正体]―


『92歳、広岡達朗の正体』が3月14日に発売