イラクの湿地帯に浮かぶ水上住宅から、イタリア、ボローニャの天を突きあげるようにそびえたつ中世の塔などがかつて存在したことを知っているだろうか?
失われた建築物の中には人間が環境と関わり、形作ってきた多様な方法を垣間見せてくれる。そんな9つの例をあげてみよう。
12世紀に建設された旧ロンドン橋は、中世工学技術の驚異であり、ロンドン史の中でももっとも重要な建造物のひとつといえる。完成までに30年の年月がかかった。
この橋は、ロンドンが大火災にみまわれたり、竜巻に襲われたりして前の橋が損害を受けるたびに建設された。
新たな橋の形状が異なっているのはそのためだ。その基礎は、巨大な木の杭を川底に打ち込んで、瓦礫で埋め立てられて作られた。複数の橋脚が建てられ、その上に長さ282メートルの橋がかけられた。
しかし、これは単なる通過用の橋ではなく、ひとつの地域だった。
クロード・ド・ジョンによる1632年の油絵『旧ロンドン橋』イェール大学所蔵
注目したいのは、橋の上に建物や店舗があってにぎやかな通りや住宅地になっていたことだ。
19基ものアーチがユニークで、建築的にとても印象的なものだったが、川の交通に渋滞を引き起こし、有名な童謡でも歌われているように橋の崩壊につながった。17世紀にはすでに時代遅れの産物だと考えられていた。
この橋は600年以上存続していたが、老朽化と都市の成長にともなってより大きな橋が必要になったため、19世紀にかけ替えられた。
2. ナーランダ大学(インド)
大学最盛期の想像図
インド、ビハール州にある古代の高等教育の中心地で、5世紀にさかのぼる最初の仏教大学のひとつ。
広大な仏舎利図書館が有名で、遠くはチベット、中国、韓国、中央アジアからの学者や学生が集まった。最盛期には、1万人を超える学生と2000人の教師が住んでいて、神学、文法、論理学、天文学、医療を教えていたという。
ナーランダ大学は5世紀初頭にグプタ朝の皇帝によって創設され、その後7世紀にわたって拡張された
ナーランダ大学は、12世紀にインド東部のイスラム支配を指揮したアフガニスタン軍のバフティヤール・ハルジ将軍に破壊されるまで知識と学問の象徴だった。
この出来事は、インドにおける仏教教育の衰退の始まりとなり、ナーランダ遺跡は19世紀に再び発見されるまで忘れ去られることになった。
3.水晶宮(ロンドン)
1854年に建設された水晶宮
建築の驚異はなにも古代や中世のものばかりとは限らない。
水晶宮は、もともとは工業時代の驚異を披露する主旨で開催された、1851年の大博覧会のためにハイドパークに建設されたガラスと鉄の会場だった。6万枚のガラスを使い、壁と天井からは外が透けて見えていたという。
移転後の水晶宮
設計はジョゼフ・パクストン卿で、そのモジュール建築とプレハブ部品の使用は画期的で、現代建築や工学に影響を与えた。
博覧会後、水晶宮はシデナム・ヒルに移設されたが、1936年の大火で崩壊した。水晶宮はヴィクトリア時代の産業や文化の成果の象徴であるだけでなく、光と空間をフューチャーした現代建築設計の先駆けでもあった。
この大博覧会は非常に衝撃的だったため、今でも会場があった場所は水晶宮と呼ばれている。
4. 失われた水上住宅(イラク)
イラク、ナシリア近郊の湿地帯 / Image credits: Nik Wheeler.
これはひとつの建築物というより、ユニークなスタイルの住居群だ。
イラク南部の湿地帯にはかつて、チグリス・ユーフラテス川という水生環境にうまく適合した水上住宅が点在していた。
これら葦で作られた家はムディフといい、湿地帯に住むアラブのマダン族によって建てられた。湿地から刈り取られた葦だけを使い、環境とうまいこと調和した持続可能な生活を彼らがよく理解していたことがわかる。
こうした水上コミュニティは1000年もの間繁栄し、湿地と深く絡み合った文化を育んだ。
だが、1990年代にイラク政府が始めた排水プロジェクトによって、湿地と水上住宅は崩壊の危機に直面した。その後、生態系や文化保護が見直され湿地復元の取り組みも行われたが、その成果は限定的だ。
人間がどれほど環境を変えることができるかを証明するものでもある。
イラク、ネセルヤにあるムディフ / WIKI commons
5. 中世の塔(イタリア、ボローニャ)
現代の彫刻家トニ・ペコラーロが描いた塔が建ち並ぶ中世ボローニャの想像図(1958年)
中世ボローニャの町が、現代のマンハッタンの摩天楼群にそっくりだったとしたら?
イタリア、ボローニャはかつて、おびただしい数の塔があったことで有名だった。12世紀から13世紀に、裕福な家庭によって防衛と地位や権力の象徴として次々と建てられたのだ。
最盛期には180もの塔があったとされ、高さ100メートルに達するものもあったという。
現在残っているのは20あまり。アシネッリ塔とガリセンダ塔がもっとも有名で、天に向かってひときわ異彩を放っている。
その建築技術と目的からも、中世イタリア都市のステータスの社会的・政治的力関係がよくわかる。
町の博物館にある中世都市の模型。塔の数がピークだった頃のボローニャの様子がよくわかる
6. 救世主キリスト大聖堂(ウクライナ、キーウ)
ウクライナ、キーウにあるこの教会は、記念碑的プロジェクトだった。
19世紀に建設が始まり、正教会の精神的な復活と強さを象徴する、西ヨーロッパの大聖堂に匹敵する建物を目指した。
ボルキにある救世主キリスト大聖堂 / Image credit:Alexei Ivanitsky
しかし、第一次世界大戦と1917年のロシア革命の余波で、ウクライナのほとんどがソ連の構成共和国となった。
ソ連は無神論と反宗教施策を強要し、多くの教会を組織的に破壊した。ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンは、社会主義の記念碑を建てるのにウクライナの大聖堂跡地を選んだ。
この大聖堂の物語は、ウクライナの激動の歴史と、東ヨーロッパの宗教、政治、アイデンティティの複雑な相互作用を反映している。
7. バグダッドの円形都市(イラク)
西暦762年にアッバース朝のカリフ、アル・マンスールによって創設されたバグダッドの円形都市は、イスラム建築と都市計画の驚異といえよう。
都市は完璧な円形で、周囲に城壁がめぐらされ、中心にカリフの宮殿と大モスクがあった。この放射状の設計は、その後のイスラム世界やのちの都市開発に影響を与えた。
バグダッドの円形都市想像図 / image credit:Jean Soutif/Science Photo
円形都市は中世世界の学問、文化、権力の中心で、有名な知恵の館があった。
オリジナルのレイアウトは、何世紀もの間の侵略や現代の都市開発によって曖昧になってしまい、かつての革新的なデザインの痕跡はほとんどわからなくなっている。
1258年、モンゴル人によって破壊されるまで、この円形都市はイスラム世界の事実上の中心地だった。この破壊は大きな影響を及ぼし、実質的にイスラム黄金時代の終わりにつなかった。
8. ノイエ・エルプブリュッケ橋(ドイツ、ハンブルグ)
この橋は、19世紀後半の都市の産業成長と近代化を象徴する、当時の建築的偉業だった。
当時のエルプブリュッケ橋と現代の橋 / Reddit
エルベ川にかかるこの橋は、都市のさまざまな地域を結び、交通と商業を促進した。
革新的なデザインと工学技術は、当時の技術の進歩を象徴していた。さらにふたつのネオ・ゴシック様式の通り道として審美的な象徴でもあった。
この橋が崩壊したのは、爆弾や侵略のせいではない。車線を増やすために1959年に取り壊されて再建された。
9. 磁器の塔(中国、南京)
大報恩寺としても知られる南京の磁器の塔は、息をのむような美しさとその複雑なデザインで知られる15世紀の仏塔で、太陽の光を受けて輝く磁器タイルが特徴的だった。
明王朝のときに建設され、中世世界の7不思議のひとつだと考えられてきた。塔の高さはおよそ79メートルで、仏像や碑文で飾られていた。
19世紀の太平天国の乱で破壊され、再建の計画もあったが実現していない。とはいえ、南京の文化的、宗教的歴史の象徴として、オリジナルの塔の素晴らしさと重要性は比類なきものだったとされている。
南京博物館に展示されている模型に基づいて描かれた取り壊される前の磁器の塔 / WIKI commons
時の砂に埋もれてしまい今はないこれら9つの建築驚異は、歴史的、審美的価値だけでなく、未来の世代への教訓のためにも、私たちの文化遺産の名残りを保存することの重要性を強調している。
残存する文化遺産の保存は、過去だけでなく未来への敬意でもある。次世代に受け継がれる遠い昔の驚異は、今後の人々に現代の私たち同様のひらめき、教育、驚きを与え続けてくれることだろう。
References:9 lesser known architectural wonders we lost to time / written by konohazuku / edited by / parumo
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