切り紙絵の鮮やかな世界と、建築、室内装飾、司祭服のデザインまで総合的に空間をプロデュースした光あふれる礼拝堂。さまざまな変遷を経て、マティスが最晩年にたどりついた境地とは!?

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文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

芸術的思考がわかる『マティス 画家のノート』

「私が夢みるのは心配や気がかりの種のない、均衡と純粋さと静穏の芸術であり、すべての頭脳労働者、たとえば文筆家にとっても、ビジネスマンにとっても、鎮静剤、精神安定剤、つまり、肉体の疲れをいやすよい肘掛け椅子に匹敵する何かであるような芸術である。」(『マティス 画家のノート』二見史郎訳/みすず書房)

 これはインタビュー、対話、手紙、覚え書、友人・知人等による記録など、マティスの文章や言葉を集めた『マティス 画家のノート』にある有名な言葉です。野獣と呼ばれたマティスはその後の画家人生で、観る人にとっての肘掛け椅子になるように画家の思いを描くという芸術を目指し、それが実現したのが最晩年の切り紙絵やロザリオ礼拝堂だったのです。マティスの後半生を紹介する前に、その芸術的思考がよく伝わるマティスの言葉を紹介しましょう。

 この本には、色についての記述もたくさん出てきます。

「室内を描くとする—私の前には戸棚があり、実にいきいきした赤の感覚を私に与えている。そして私は満足のいくような赤を置く。この赤とカンヴァスの白との間にある関係が生まれる。そのそばに緑を置き、黄色で寄せ木の床を表現しようとする。そこでこの緑と黄とカンヴァスの白との間に私の気に入る関係が生まれるだろう。」

 この言葉から、マティスが実際に目に見える色ではなく、カンヴァスの上で色同士がどういう関係になるかを考えて選んでいることがわかります。

「自然を解釈し、それを絵の精神に服属させるようにせざるをえないのである。私の色調のあらゆる関係が見出されたとき、そこから生きた色彩の和音、音楽の作曲の場合と同じような調和が生まれてくるに相違ない。」

「私の色彩の選択はどんな科学理論にも頼らない—それは観察、感情、私の感受性の経験に基づいている。(中略)私の方は単に自分の感覚を表現する色を置こうと努めるだけである。」

 このように色彩は自身の感情表現だと繰り返し述べています。ルネサンス以来の自然を求めてそのまま写す手法から、自分の感性で変える手法へとマティスはひっくり返したのでした。

「構図は画家が自分の感情を表現するために配置するさまざまの要素を装飾的な仕方で整えるわざである。」

 構図についても自分の感情の表現で、構図はそれを装飾的な仕方で整えているものだと言っています。

 マティスはこれらを絵画の精神としました。(引用部分 前出『マティス 画家のノート』より)

 それからもうひとつマティスを知るうえで紹介したいのが、制作スタイルです。マティスの作品は描き殴ったようなものや、短時間で迷いなくササッと描いているように見えるものが多く、子供が描いたようだと批評されることもあります。しかし、時にはひとつの作品に8か月以上かけ、何度も修正しながら制作しました。

 1930年代、マティスは自らの制作過程を写真に残しました。パリのマーグ画廊で開かれた展覧会では、日本でも有名な《ルーマニアのブラウス》と《夢》(ともに1940年)という作品の制作過程写真が展示され、女性の顔やポーズ、背景の装飾などを何度も修正し、試行錯誤しながら仕上げたことがわかっています。

切り紙絵までの変遷

 1920年代ロシアバレエの衣装や舞台装置、模様のある背景と人物という装飾的な「オダリスク」、そして神話を主題とした作品に取り組んだ後、1930年代、61歳から70歳の時期は、彫刻、壁画、挿絵、タピスリーなどに挑戦し、晩年の切り紙絵へと向かいます。

 この時期のトピックにバーンズ財団の依頼でシチューキン邸の壁画《ダンスⅡ》(1909年)と同じ主題《ダンス》(1932-33年)に取り組んだことがあります。1931年から構想していたのですが、翌年になってサイズが違うことに気がつき、新たに描き起こしました。これはバーンズ財団のメインルームに設置されています。このダンスのためにマティスは多くの習作を描きます。そして塗り直しの手間を省くために初めて色を塗った紙片を組み合わせる手法を使いました。

 サイズ違いの《未完のダンス》(1931年)は破棄されたと思われていましたが、1992年に発見されました。また、バーンズ財団に作品を設置したあと、マティスは《未完のダンス》をカンヴァスに移して《パリのダンス「ニンフたち」》(1931-33年)として完成させます。これらをパリ市が購入し、《未完のダンス》《パリのダンス「ニンフたち」》は現在、パリ市立近代美術館が所蔵しています。

 ドイツ軍がパリを占領した1940年、71歳のマティスは国を離れず、第二次世界大戦中もニースに留まります。翌年、十二指腸癌の手術を受けて体力が衰えたことから、これ以降、助手がグアッシュで彩色した紙を切り抜いて貼り合わせた切り紙絵の作品と、デッサンを中心に制作するようになります。

 デッサンデッサン集『テーマとヴァリエーション』(1941年)として結実し、20点の切り紙絵と手書きの文章を組み合わせた本『ジャズ』(1947年出版)で、マティスは切り紙絵という新たな表現の確立を世間に知らしめました。

 切り紙絵は、切り抜いた紙を台紙と組み合わせてアトリエの壁面にピンなどで仮止めしてマティスは作品を制作しました。そして小規模なユニットを組み合わせてより大きな画面へと拡大していき、建築的な空間を生み出したのでした。

 1946年から48年には、《大きな赤い室内》(第3回参照)など油彩の室内画群を制作しています。

切り紙絵の大作とロザリオ礼拝堂

 1943年、74歳のマティスはニース郊外ヴァンスにアトリエを構え、切り絵デッサンの制作を続けました。切り紙絵は次第に大きなものになっていき、1950年代に制作した今回来日している《仮面のある大装飾》(1953年/ニース市マティス美術館所蔵)は、353.6×996.4cmという大きさです。花びらのユニットの中に切り絵としては珍しい、人の顔が表現されています。

 また、青一色でヌードを表現した切り紙絵《ブルー・ヌード》(第3回参照)は、今回の来日作品《ブルー・ヌードⅣ》(オルセー美術館所蔵)をはじめとする4点のヴァリエーションがあり、すべて彫刻作品のように片膝を立てたポーズをしています。マティスは絵画、彫刻、デッサンといった要素すべて、この作品で表現しようとしました。

 ほかにも185.4×1643.3cmの大作《スイミング・プール》(1952年ニューヨーク近代美術館所蔵)は、青一色で生き生きとリズミカルに泳ぐ人を表現し、まさに建築空間と結びついた装飾になっています。

 1947年から始まったのが、ヴァンスのロザリオ礼拝堂の計画です。腸閉塞のマティスを看護したモニーク・ブルジョアという女性が修道女になり、戦火で焼けた礼拝堂のステンドグラスのデザインをマティスに相談しにきました。

 無神論者だったマティスですが「この礼拝堂は私にとっては全生涯の仕事の到達点であり、莫大な、真摯で困難な努力の開花であります。」(『マティス 画家のノート』二見史郎訳/みすず書房)と語って、礼拝堂の設計と装飾を無償で引き受けます。また、肘掛け椅子のような芸術を目指したマティスは「礼拝堂を訪れる人たちが心の軽くなる思いをすることそれが私の望みです。」(同『マティス 画家のノート』)と言って、礼拝堂の仕事に心血を注ぎました。

 切り紙絵をもとにした生命の木のステンドグラス、線画の聖ドミニコ、聖母子、「十字架への道」の14場面のタイル壁画のほか、燭台、ドアノブ、司祭服に至るまで、マティスはすべて計算して作りました。1951年、4年の歳月をかけて完成した礼拝堂は、当初「神への冒涜だ」と非難を浴びましたが、次第に人々から安らぎを覚える、という言葉が聞こえ始めます。

 今までの画面空間のあり方を変え、ステンドグラスから差し込む光まで取り込んだ新たな空間を創出した礼拝堂は、まさにマティスの集大成といえるでしょう。親交のあった建築家のル・コルビジェは礼拝堂を評価する手紙をマティスに送っています(今回のマティス展では礼拝堂を体感できる空間が再現されています)。

 礼拝堂完成の3年後の1954年11月、84歳でこの世を去ったマティス。最後まで切り紙絵を制作していたといいます。

 ピカソが「嫉妬したのはマティスだけ」というその才能を、生涯を通して余すことなく発揮した画家といえるでしょう。

 

参考文献
『マティス 画家のノート』二見 史郎/翻訳(みすず書房)
『マティス (新潮美術文庫39)』峯村 敏明/著(新潮社
『もっと知りたいマティス 生涯と作品』天野知香/著(東京美術)
アンリ・マティス作品集 諸芸術のレッスン』米田尚輝/著(東京美術)
『美の20世紀 5 マティス』パトリック・ベイド/著 山梨俊夫・林寿美/翻訳(二玄社)
『「マティス展」完全ガイドブック (AERA BOOK)』(朝日新聞出版
『名画への旅 第22巻 20世紀Ⅰ 独歩する色とかたち』南雄介・天野知香・高階秀爾・高野禎子・太田泰人・水沢勉・西野嘉章/著(講談社
『西洋美術館』(小学館)         他

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ヴァンスのロザリオ礼拝堂を訪れたアンリ・マティス 写真=Edward Quinn Archive/アフロ