仕事一筋で生きてきた人ほど、定年退職後に自らの立場が取り替え可能であったことに気づいてショックを受けるものです。そこで本稿では、MP人間科学研究所で代表を務める心理学博士の榎本博明氏による著書『60歳からめきめき元気になる人「退職不安」を吹き飛ばす秘訣』(朝日新聞出版)から一部抜粋して、老後の人生を「唯一無二」のものにするコツについて解説します。

産業用ロボットのように生きる必要がなくなる

新聞の広告欄にはよくビジネス誌の広告が出ているが、ときどきタイムマネジメントの特集が組まれたりしている。

そんなタイムマネジメントの記事を参考に、もっと効率よく過ごさないと、と思ってきた人も、心のどこかでそんな生き方に虚しさを感じることがあったのではないだろうか。

きちんとタイムマネジメントをして無駄を削ぎ落とす。それによって効率良く仕事ができ、有能な社員になれる。そうした発想には、非人間的な生き方を強いられるビジネス界の厳しさが窺われるが、その根本には社員を使いやすい人材に仕立てるという考え方がある。

タイムマネジメントによって時間を節約することで、自分にとっての豊かな時間が生まれるわけではない。より多くの仕事を詰め込むための時間が生まれるだけである。それによって自分らしい生き方を模索する心の余裕は失われていく。

このように、これまでは生きる糧を得るための労働力に徹する必要があった。生産性向上の邪魔になるものはすべて無駄として切り捨てる。それはまるで産業用ロボットのような生活だったと言ってよいだろう。

でも、これからはそんな非人間的な日々を送らなくて済む。規則正しい毎日を繰り返す必要はないし、無駄をなくすべく効率的に過ごす必要もない。

これまで効率性を重視してバリバリ働いてきた人ほど、無駄として切り捨ててきたものごとは多いはずだが、もう切り捨てなくてよいのだ。

これまで意味のあったことも意味を失う。利潤追求、コスト削減、顧客重視、コンプライアンス……そんなことのために自分の気持ちや欲求を抑え込む必要がなくなる。そして、これまで意味のなかったことの中から意味が湧き上がってきたりする。非効率、無駄、手間暇かかる、金がかかる……そうしたことを切り捨てない生活の中で、見失っていたものが見えてくる。

まさに価値観の転換を図るチャンスである。これまでの職業生活を貫いていた世俗的な価値観、儲けることを軸とした価値観から脱却してもよいのである。

これまでの人生に意味がなかったというのではない。人生のステージによって価値を置くべき事柄が違ってくるのだ。生活がかかっていた時期には、儲けるために働くのは義務であり、その義務をしっかり果たすべく一生懸命に働いてきたからこそ、ご褒美として価値観を転換することが許される立場を手に入れたわけである。

これからはこれまでと違う、もうひとりの自分を生きることができる。別の人生に踏み出してもいい。生活がかかっていたときにはできなかった生き方ができるのである。

ここはじっくり腰を据えて、これからの人生で重視する価値を再検討すべきだろう。時間はたっぷりあるのだ。

取り替え可能な機能的人材から、唯一無二の個性的人間へ

有能な働き手であった人ほど、組織のもつ評価軸上で高評価が得られるような働き方に徹してきたはずである。評価される人材としての自分を一生懸命に生きてきたと言ってよいだろう。

そのような人は、自分の気持ちや欲求を無視して、ひたすら効率的かつ生産的な毎日を送ってきたに違いない。ときに趣味人として充実したプライベート生活を楽しんでいる同僚を羨ましく思うことがあっても、そんな思いは即座に抑圧し、有能な機能的人材としての道を歩んできたのだろう。

でも、定年退職を迎える頃には、そのような機能的人材は簡単に取り替えがきくものであったことに気づく。自分が退職しても、代わりにその機能を担う人材がいて、組織には何の支障も生じない。そんな自分と違って、趣味人として充実したプライベートを楽しみながら仕事生活をこなしてきた人物は、けっして取り替えのきかない個性的な人生を送っている。

仕事一筋に生きてきた人ほど、そのことに気づいたときに受ける衝撃は大きい。いとも簡単に取り替えがきく人材に過ぎなかった自分。そんな自分の立場を意識することで、虚しさが込み上げてくる。

これまでの仕事人生は何だったのだろうといった思いが脳裏をよぎる。これまでの自分の仕事人生すべてが無意味に思えてくる。

だが、それは人生のステージが変わったために起こる価値観の揺らぎであって、以前のステージでは大いに意味のある生き方をしていたのである。ステージが変わることによって、人生の選択肢が増えたため、これまでは我慢しなければならなかった生き方に堂々と踏み出せる立場になった。それで以前の生き方が色褪せてしまうのだ。

私たちは、言ってみれば多面体である。さまざまな欲求をもっている。

仕事で成果を出して有能さを発揮したいと思う自分もいる。何物にも縛られずに自由に漂いたいと思う自分もいる。でも、生きていくうえでは生活の糧を得る必要があるので、後者の欲求は抑圧し、前者の欲求充足のために仕事を頑張るしかない。

仕事で成果を出して周囲から認められたいという欲求のほかに、好きな音楽をやって暮らしたいという欲求を抱えている人も、多くの場合、後者の欲求は抑圧し、せいぜい週末に趣味として楽しむくらいにして、前者の欲求充足のために仕事に集中するしかない。

生活の糧を得るために、元々多面体である自分を一面的に封じ込めなければならない。それが定年までの仕事生活である。そんな封じ込めていた多面体の自分をいよいよ解放し、これまで抑圧してきた欲求を前面に掲げるチャンスが訪れたのである。

それは、まさに「自己実現」への道が開かれたとみなすべきではないだろうか。

榎本 博明

MP人間科学研究所

代表/心理学博士

(※写真はイメージです/PIXTA)