東日本大震災で壊滅的な被害を受けた仙台空港は、旅客機の発着再開まで約1か月を要しました。この間、同空港ではどのようなことが起きていたのでしょうか。

震災5日後には航空機の発着対応可能に

仙台空港は2011年3月11日東日本大震災で、大津波によるがれきが滑走路や旅客ターミナルビルに大量に流れ込むなど大きな被害を受け、旅客機の発着再開まで約1か月を要しました。この間、同空港ではどのようなことが起きていたのでしょうか。

3月16日、嘉手納基地所属の特殊作戦機MC-130H「コンバット・タロンII」が固定翼航空機としてはじめて、震災後の仙台空港に着陸しました。これが仙台空港の復興に向けた第一歩です。

津波の被害を受けた仙台空港は、飛行場施設、道路、水道や電気などのライフラインを含めたすべてが失われ、震災直後は復旧に長期間がかかると思われていました。しかし、自衛隊在日米軍、現地の民間業者の連携で震災の5日後には特殊作戦部隊の航空機を着陸させることができています。

MC130H「コンバット・タロンII」特殊作戦機は、通常の輸送機C-130の後部胴体の構造を強化し、レーダーと赤外線航法装置を搭載したもの。パイロットは夜間暗視ゴーグルを使用して飛行することが可能になりました。

そのため、全天候下において地上からの高度250フィート(およそ76m)においても正確に物資の投下が可能になっています。

在日米軍司令部では地震発生後まもなく嘉手納基地からこの機を横田へ移動させ、一刻も早く被災地への投入が可能になるよう準備させていました。その後、輸送機の発着に必要な長さの滑走路が確保できてからは、横田基地の第374航空団のC-130H輸送機により車両や発電機、燃料など復旧作業に必要な全ての人員と物資を空輸しています。

緊急時の仙台空港で行われた珍しいオペレーション

震災後の仙台空港では、米軍の「戦場管制官」による航空管制を行う準備が進められました。同空港では、ターミナルビルの屋上にアンテナが設置され、空港の気象情報と航空機の運航に必要な情報の提供が開始されています。

仙台空港の復旧作業は最優先で行わなければなりませんでした。というのも、そののち、在日米軍では自衛隊と協力して震災後の救援活動を行う「トモダチ作戦」を展開しますが、この作戦の根幹となる物流拠点として選ばれたのが仙台空港だったためです。

飛行場としての機能を取り戻した仙台空港には大型輸送機C-17も投入が始まり、本格的な空輸作戦が始まりました。大型輸送機で空輸されてきた救援物資は仙台空港でヘリコプターに積み替えられ各地の避難所へと届けられています。

他方、震災で発生した福島第一原子力発電所からの放射能漏れから隊員を守るために、米軍では一時、同原子力発電所から半径50マイル(約80km)に米軍関係者が立ち入ることを停止する措置が取られました。

東日本震災当時、横田基地の司令部で航空業務を行っていた故マイク・ビショップ氏によると、作戦に参加していた豪空軍のC-17乗員たちは「放射能は気にしない。必要ならばどんな場所にも物資を空輸する用意がある」と申し入れてきたそうです。

さらに同氏は、「米軍機が日本の飛行場に発着するためには毎回調整と書類の準備が必要になる。そのため司令部の担当者は全員が震災発生からおよそ2か月間、週末も休日も返上して毎日勤務した」と話してくれたことが今でも忘れられません。

震災後の仙台空港では歴史的にもめずらしい米軍による航空管制が民間飛行場において実施されましたが、空港機能の回復しに伴い4月1日をもって国土交通省に管制業務が引き継がれました。

仙台空港の復興に尽力された在日米軍自衛隊、そして果敢に放射線量の強い地域の飛行まで申し入れてくれた豪空軍の乗員の方々にあらためて敬意と感謝を表したいと思います。なお、仙台空港の一階ロビーには震災後の空港復旧作業についての説明が掲示されています。

仙台空港(乗りものニュース編集部撮影)。