現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売直後から注目を集めている。

巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。

(以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

西武ライオンズ編 石毛宏典 前編〜
◆最悪だった広岡達朗の第一印象

「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」

バスの中でむさくるしい大男たちが万歳三唱を唱えている。

石毛宏典は、そんな光景を見て複雑な気持ちになった。先輩たちの気持ちがわからないでもない。今まで自由奔放にやっていたのが、急に広岡がやってきていろいろと締め付けられ、さぞ窮屈で鬱憤も溜まっていただろう。しかし、いつもなら一緒になってドンチャン騒ぎする俺でもさすがにこれはできない、先輩たちが嬉しそうに万歳する姿を、ただ黙ってじっと見つめていた。

一九八五年、阪神との日本シリーズを終えた西武ライオンズの選手たちは、日本一を奪還できなかったとはいえ、ペナントレースからの長い激戦での疲労を癒すべく群馬県水上温泉での休養に向かっていた。マイクロバスに乗り込んでしばらくしてのことだった。

ラジオを聞いていた選手のひとりが、突然大声を出した。

「おい、監督、辞めるってよ!」

座席でリラックスしている選手たちは、「はあ!? つまんねえ冗談言うなよ」と最初は無視していた。すると、他にラジオを聞いていた者も「監督辞めるぞ」と同じことを言い出した。バスがサービスエリアに入ると、トレーニングコーチ公衆電話で確認しに行った。

トイレ休憩を終えた選手たちが次々とバスに乗り込んでくる。そして一番最後にトレーニングコーチが乗り込んできて、神妙な顔つきのまま一拍置いて口を開いた。

「広岡監督が辞任された」

大男に埋め尽くされたバスの中には、「ん?」「え?」と幾つもの〝はてなマーク〟が点灯した。ほんの一瞬だけ静まり返ったのち、「マジかよ!」「嘘っ!」「クビじゃなくて辞めたの?」「次の監督は?」「やっぱなぁ」「解雇? 辞任? まあいっか」と選手たちは蜂の巣を突いたように騒ぎ出した。そしてどこからともなくバンザイコールがかかり、ベテラン連中と若干名の若手が一緒にバンザイし始めた。

八五年一一月八日、西武ライオンズ広岡達朗監督辞任。 この日を最後に、広岡は二度とユニフォームを着ることはなかった。

石毛にとって、広岡の第一印象は最悪だった。広岡が監督に就任した直後の合同自主トレでのことだ。

「お前が石毛か。去年新人王を獲ったらしいけど、下手くそやな」

なんだ!? 喧嘩を売られているのかと思った。

「あなたこそ、玄米を推奨してますけど、痛風らしいじゃないですか 」。そんなことを面と向かって言いたかったが、もちろん我慢する。とにかく噂通りの嫌なやつだと思った。 売られた喧嘩は買うしかない。石毛は、広岡と口を利くのを止めた。

そうとは知らない広岡は、控えのショートである行沢久雄や広橋公寿を捕まえて熱心に指導している。守備コーチ近藤昭仁も加わり、なにやら活気付いた雰囲気になっているのが遠目からでもわかる。平然を装おうにも、どうにも気になって横目でチラチラと見てしまう。

違う、そうじゃない」「そうだ、もう一度!」。広岡の檄が飛ぶ。

その練習を端から見ていると、選手たちがみるみる上達しているように思えてしまう。石毛はひとり取り残されている気分に陥った。監督に睨まれることに抵抗はないが、他の選手が上達することにもどかしさを感じる。石毛は不本意ながら自ら広岡に歩み寄ることにした。

◆「お前だって長く野球やりてえだろう」

「監督、僕にも教えてください」

帽子を取って非礼を詫びた形をとる。

「ようやく気づいたか、入れ」

広岡は、待ち構えていたかのように言う。

少しでも広岡と関わった者なら誰でも知っているが、広岡流の守備特訓の第一段階として、ごく基礎的な練習からやらせるのが定番だ。広島、ヤクルト時代と同じように、最初 はゆっくり転がしたボールを捕らせることから始める。ゆっくりボールを転がしたと同時 に大声が飛ぶ。

「石毛、こう(最初から構えて捕るのではなく、上から摑むように)捕れ!」

なんでそんな捕り方をさせるのかわからなかった。とりあえず言われたとおりに上から摑むように捕ろうとしたら、ボールが抜けていった。捕れなかったのだ。

「ほら見てみろ、こんなボールなのに捕れねえだろ。下手くそ」

石毛の表情は一変した。小っ恥ずかしかった。

上から摑むように捕るためには、相当腰を下ろさなければならない。次からは、腰をがっちり落として慎重に捕った。しばらく続けてから広岡は石毛を呼び寄せた。

「お前だって長く野球やりてえだろう。将来指導者になりてえだろう。今のお前は我流なんじゃ。三〇ぐらいまでは今のやり方でもできるかもしれんけど、三〇過ぎたら、その身のこなしではまともに野球ができなくなるし上手くならん、指導者もできない」

石毛は広岡を真摯な目で見つめ、監督の言わんとしていることを汲み取ろうとした。広岡の目には怖いほどの強い力が宿っていた。

広岡が、なぜ口酸っぱいほどに基礎と言うのか、石毛は考えてみる。まずは原点に立ち返るために学生時代を振り返ってみた。そういえば、中学高校大学社会人と指導をきちんと受けた記憶があまりない。なぜならば、持って生まれた才能で、指導を受けずとも他のチームメイトより上手くできてしまっていたからだ。それは石毛だけに限らず、七〇年代のプロ野球選手は、各々が持っている才能、センス、感性だけで投げたり打ったりしていた。それこそ遊びの延長で野球をやっているのが普通だったからだ。

若いうちは体力があるから自己流でも四、五年はできるけれども、所詮自己流では長続きしないというのが広岡監督の考えだ。頭でわかっていても体で覚えないと、人間は進化していかない。石毛は何とか理解しようと、広岡の教えを全身全霊で吸収しようとした――。

(次回へ続く)

【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

―[92歳、広岡達朗の正体]―


『92歳、広岡達朗の正体』が3月14日に発売