今回は紫式部の夫、大河ドラマ『光る君へ』では、佐々木蔵之介が演じる藤原宣孝を、ご紹介したい。

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文=鷹橋 忍 

紫式部とは親子ほど年齢が離れている?

 藤原宣孝の父は権中納言藤原為輔、母は参議藤原守義の娘である。

 祖父は藤原朝頼といい、醍醐天皇の「いとこ」にあたる。曾祖父は右大臣にまで上った藤原定方だ。

 宣孝の曾祖父・定方の娘は、紫式部の祖母である。

 ゆえに宣孝の父・為輔と、紫式部の父・岸谷五朗が演じる藤原為時は「いとこ」で、紫式部と宣孝は「またいとこ」にあたる。

 宣孝の正確な生年は不詳であるが、天暦3年(949)頃に生まれたようである(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 服藤早苗「第六章 夫藤原宣孝 ——異色を放つ夫」)。ここでは、宣孝の生年を天暦3年として計算する。

 紫式部の生年も諸説あり定かでないが、仮に天延元年(973)年説で計算すると、宣孝は紫式部より24歳年上となる。

 宣孝には紫式部以外にも妻が複数おり、子も成した。宣孝の長男・藤原隆光は、紫式部と同年代とされる。

『枕草子』に登場

 宣孝の家柄は、各国の受領(国司)を務める中級貴族だという。

 宣孝は博識で優秀な官人であり、舞人としての才にも恵まれていたようだ。渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』長保元年(999)11月11日条によれば、宣孝は賀茂臨時祭調楽で人長(舞人の長)を務め、「甚だ絶妙である」と賞賛されている。

 宣孝は、ファーストサマーウイカが演じる清少納言(ドラマでは「ききょう」)作の『枕草子』に登場する。

『枕草子』「あはれなるもの」の段によれば、御嶽詣ではどんなに身分の高い人でも、目立たぬ身形(みなり)で参詣すると聞いていたのに、宣孝は「御嶽の神様も『身なりを悪くして参詣せよ』とはおっしゃるまい」と言い、宣孝は濃い紫色の指貫(ズボン)と白い狩衣に山吹色の派手な衣を纏い、息子の隆光は青色の上衣の下に紅色の衣に水干袴という目立つ装束で、参詣した。

 参詣で宣孝・隆光父子を見た人々は、「こんな姿の人は見たことがない」と驚いたという。

 だが、その後、宣孝は藤原知章の後任として筑前守となったので(『小右記』正暦元年8月30日条)、「宣孝の言ったことに違いはなかった」と話題になったと清少納言は綴っている(『枕草子』は、宣孝が筑前守になったのは「六月十余日の程」と記す)。

 宣孝は正暦5年(994)には筑前守の任期を終え、帰京したと推測されている。

 その後、長徳4年(998)に山城守となるまで、宣孝がどんな官職についていたのか、もしくは散位していたのか、いっさいわかっていないという(角田文衞『紫式部伝——その生涯と『源氏物語』——』)。

 

紫式部との結婚

 一方、紫式部は長徳2年(996)、数えで24歳ぐらいのとき、父・藤原為時の赴任先である越前国に下向した。宣孝は越前の紫式部のもとに、求婚の書状を送った(倉本一宏『紫式部藤原道長』)。

 紫式部は長徳4年(998)頃、父・為時を残して帰京し、まもなく宣孝と結婚したとみられている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 服藤早苗「第六章 夫藤原宣孝——異色を放つ夫」)。

 しかし、宣孝には紫式部以外に正妻がおり、紫式部とは同居していなかった(倉本一宏『紫式部藤原道長』)。

 二人は痴話喧嘩をすることも多く、紫式部の家集『紫式部集』には、宣孝が「立てどかひなし(おまえには勝てない)」と降参する歌も収められている。

娘・賢子

 宣孝と紫式部の間には、長保元年(999)、もしくは長保2年(1000)頃に、賢子(けんし)という女子が誕生している。系図類では、宣孝の娘はこの賢子のみである。

 賢子は長じると、母・紫式部と同じく、見上愛が演じる藤原彰子藤原道長黒木華が演じる源倫子の娘)に出仕し、親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母に抜擢された。

 親仁親王が即位すると、従三位典侍に昇っている。

 また、玉置玲央が演じる藤原道兼の二男・藤原兼隆と結ばれ、万寿2年(1025)頃、娘を産んだとされる(角田文衞『紫式部伝——その生涯と『源氏物語』——』)。

 その後、高階成章と結婚して、夫・成章の役職「大宰大弐(だざいのだいに)」にちなんで、「大弐三位(だいにのさんみ)」と称された。

 賢子は女房三十六歌仙の一人に数えられる歌人で、家集に『藤三位集(大弐三位集)』がある。

 百人一首に選ばれた彼女の歌は、ご存じの方も多いだろう。

 有馬山 ゐなのささ原風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

(有馬山に近くの猪名の笹原で風がそよそよと音をたてるように、私はけっしてあなたのことを忘れません)

 賢子の生没年は未詳だが、永保2年(1082)に83歳前後で没したともいわれる(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 服藤早苗「第六章 夫藤原宣孝 ——異色を放つ夫」)。

 これが真実なら、当時としては、かなりの長寿をまっとうしたといえよう。

 宣孝はこの賢子の成長を見届けることなく、この世を去っている。

 

幼子を残しての死

 紫式部との結婚後、宣孝は長保元年(999)に豊前国宇佐神宮の奉幣使に発遣されたり、翌長保2年(1000)に平野臨時祭の勅使となったり、相撲の召合に武官として列席したり、殿上音楽にも出仕したりと、多忙な日々を送っていた。

 その所労なのか、『権記』長保3年(10012月5日条には、「痔病 、発動」したことが記されている。

 そして、同年4月25日に、宣孝は死去した。

 当時、流行していた疫病に罹患しての急逝ともいわれるが、「痔病、発動」の記述などから、内臓を患っていたとも推定されている。

 宣孝と紫式部との結婚生活は約2年半。宣孝が亡くなったとき、娘・賢子は数えで2歳、もしくは3歳くらいであった。

 紫式部が『源氏物語』の執筆をはじめた時期に関しては諸説あるが、宣孝の死が、その契機となったともいわれる(関幸彦『藤原道長紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)。

 今も愛される不朽の名作『源氏物語』には、宣孝との思い出も込められているのだろうか。

【藤原宣孝ゆかりの地】

●宇佐神宮

 4万社あまりある八幡様の総本宮。大分県宇佐市にある。

 藤原宣孝は長保元年(999)に、宇佐神宮の奉幣使に発遣されている。

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宇佐神宮 写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート