現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売直後から注目を集めている。

巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。

(以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

西武ライオンズ編 石毛宏典 後編〜
◆阪神との日本シリーズでの大怪我

1985年阪神タイガースとの日本シリーズ。18年ぶりのリーグ優勝で日本全土に阪神フィーバーを巻き起こした阪神タイガースが敵地西武球場で連勝した。勝ち星が二つ先行して堂々甲子園球場に帰ってきたこともあって、どんよりした空模様を吹き飛ばすほど超満員の観客のボルテージは上がりまくりだ。

西武先発工藤公康、阪神先発中田良弘で始まった第三戦、二回表に西武が石毛の2ランが飛び出し四点先取。三回裏にバースの3ランという空中戦で、六回表が終わって五対三で二点西武のリードのまま、六回裏に入る。

先頭打者の掛布雅之が左中間に打った大きな当たりはラッキーゾーンのフェンスに当たる2ベース。ここでピッチャー永射保から東尾修にスイッチし、次打者の岡田彰布を簡単にレフトフライで1アウトランナー二塁。バッター六番佐野仙好が1ストライクからの二球目インコース寄りのストレートを強振し、レフト線寄りに高々とフライが上がった。ショートの石毛が背走して追い、レフト金森永時も猛突して追いかけている。

初めから目線を切らずに追いかけている石毛が、左側からスライディングキャッチを試みた金森をジャンプ一番でかわしてバックハンドで好捕。金森の足と交錯し、そのまま回転レシーブのように転がって起き上がりざまにセカンドに返球。その後、石毛は背中からもんどり打ってうずくまった。

タイムがかけられ、観客も石毛に何かアクシデントがあったと気づき、レフト側の西武ファンの観客は心配そうに総立ちで見ている。秋山、辻、岡村、金森、三塁側ブルペンにいたピッチャーキャッチャーらが、チームトレーナーと倒れている石毛の周りを囲んでいる。テーピングとサポーターで応急処置をして、なんとか立ち上がった。一度軽く屈伸して走ろうとし膝がガクンとなってよろけるも守備位置に付いて試合再開となった。

後続がすぐセカンドフライに倒れてチェンジ。石毛はアドレナリンが出ていたせいか最後までプレーを続ける。試合後、病院に行くと、右膝外側側副じん帯損傷の診断が下る。

翌日、選手ロッカー室でコーチ近藤昭仁とトレーナーが石毛の足の具合を見ていた。トレーナーが触診していると、右膝の外側側副じん帯部分がプラプラと横に揺れる。この状態を目にした石毛はすぐ口走った。

「昭さん、これ駄目でしょう」

「だな。いいよ、監督に言ってくるわ」

コーチ近藤昭仁が小走りでベンチに戻り、広岡監督の耳元で囁く。

「石毛、駄目ですわ」

「何? そんなに酷いのか?」

広岡は即座に反応し、急いで選手ロッカー室までやって来た。

ドアを開け、右足を伸ばしてトレーナーに処置されている石毛のもとまでカチャカチャとスパイクの音を立てて近づくなり、

「おい、出れるのか出れんのかどっちなんだお前」

焦っているのか、少し怒り気味で言う。石毛は、あれ昭さんから連絡いってないのかなと思い、返答に窮していると、

「どうすんだ、出れるのか?」

広岡が一喝する。思わず石毛は条件反射のように答える。

「出れます」

「トレーナー、テーピングでガチガチに撒いとけ。ボルタレン(痛み止め)も飲ませとけ。心配するな。後どんだけやっても2試合か3試合だ。その後は休むだけ休ませてやる」

それだけ言うと、広岡はさっさとベンチに戻っていった。

膝が壊れかけ寸前でてっきり交代かと思っていたところ、プレー続行。強制的に言われたような感じだろうけれども、自分でやると言った以上は、やるしかない。このまま第三戦を含めて第六戦まで出場し、第六戦にはシリーズ三本目のホームランを打つなど敢闘賞に選ばれた。幸い、断裂じゃなかったためシーズンオフにきちんと治療し、膝関節周りの筋力を鍛えて翌シーズンには間に合った。

◆「僕のなかで名将、知将と呼べるのは広岡達朗しかいない」

石毛は、この日本シリーズ第三戦で負傷しながらも最後まで強行出場したのは、広岡のもとで四年間野球したなかでも印象的な出来事のひとつだと語る。普通なら怪我のため交代し、翌日の日本シリーズも欠場となったかもしれない。

でも広岡の迫力に負けたというか「出れるんなら出ろ!」といった具合に背中を思い切り叩いて奮い立たせてプレーできたことに、ある種の感激もある。いわば精神力次第で不可能も可能になることもあるんだと教えられた石毛であった。現在の石毛はこう語る。

「広岡さん自身が根気よくいろいろと基礎中の基礎を指導してくれたおかげで、八度のベストナイン、一〇度のゴールデングラブ賞を受賞して四〇歳まで現役を続けられました。 あの頃基礎を学んでいなかったら、広岡さんの言うように三〇過ぎで引退していたかもし れません。間違いなく広岡さんのおかげです。結局、広岡さんが弱いヤクルトを、弱い西武を勝たせたじゃないですか。だから僕のなかで名将、知将と呼べるのは広岡達朗しかいないんです。野村さんはヤクルトは勝たせたけど、阪神、楽天では勝てなかった。森さんも西武で勝ったけど、ベイスターズでは勝てなかったですから。

プロ野球チームという技術屋集団において、技術屋をまとめるリーダー(監督)には『技術はこうすれば高くなるんだよ』という指導理論が備わっていることがまず必須。さらに、どんな相手でも納得させるだけの絶対的な理論を持つことが、リーダーの資質とし て最も重要な部分だと思うんですよ。 それまで『プロの二軍選手は未熟だから練習しなきゃいけない』『プロの一軍選手は完 成された選手だからマネジメント的なものだけでいい』と言われてきましたけど、広岡さ んは一軍だってヘタなやつがいっぱいいると高らかに言っていました。そりゃそうですよ、誰も四割も打ったことないプロ野球界。まだまだ未熟者ばかりです。どうすればスキルアップできるか。広岡さんはヤクルトでも西武でも、選手個人をしっかりスキルアップさせ、二割五分の人間を二割七分、二割七分の人間を三割近く打てるようにしてチーム力を上げていったんですから」

今でこそ、1アウト二塁だったら右方向に打ってツーアウトランナー三塁にする有効凡打や自己犠牲という単語が当たり前に評価される。しかし、八〇年代に入るまでのプロ野球には有効凡打、自己犠牲という概念など浸透していなかった。そんな時代に、真理に基づき、チーム組織で戦うための選手を強化・コントロールしていく野球を実践したのは、広岡達朗が初めてではなかろうか。

「今の野球界を見ても、アマチュアからプロまでの野球観の向上っていうのかな、日本の
野球観をレベルアップさせたのは、僕は広岡達朗と思ってますけどね」

石毛はそう断言する。

(次回へ続く)

【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

―[92歳、広岡達朗の正体]―


『92歳、広岡達朗の正体』が3月14日に発売