(町田 明広:歴史学者)

JBpressですべての写真や図表を見る

幕末維新史と外国人、アーネスト・サトウの異質さ

 幕末維新史を彩った外国人を挙げるとすれば、読者の皆さんは誰を想像するであろうか。和親条約のペリー、通商条約のハリス、武器商人のグラバー、英国公使のパークスなどであろうか。もちろん、彼らも幕末維新期の日本に与えた影響は計り知れない。しかし、忘れてはならない人物として、英国通訳官のアーネスト・サトウが存在する。

 そもそも、サトウはこの時期に来日した誰よりも、日本語を巧みに操ることができた。候文の読み書きができた、唯一の西洋人である。なんと、幕末期に伊藤博文や井上馨と文通をしていたというから驚きである。また、サトウは幕末の多くの偉人たちと交流を重ねている。サトウによる人物評を挙げておこう。いずれも、サトウが著した『一外交官の見た明治維新』による。

徳川慶喜】将軍は自分がかつてみた日本人の中で最も貴族的な風貌の一人である。秀麗な顔立ちを持ち、額は高く、鼻筋はよくとうり、実に好紳士であった。

西郷隆盛】黒ダイヤのように光る大きな目をしていて、しゃべる時の微笑みには何とも言えぬ親しみが感じられた。ただとても賢い人物だが、なかなか心を開いてくれないので、少々厄介だ。

小松帯刀】私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず政治的な才能があり、態度にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。顔の色も普通よりきれいだったが、口の大きいのが美貌をそこなっていた。

木戸孝允】非常に穏やかで丁寧な物腰の人物。政情について議論すると、すごく熱く語る。

 こうした人物評は、誰でも知っている人物に関して、何かしらの新しいイメージを与えてくれるものであろう。

 今回は、幕末維新史に大きな足跡を残したサトウの生涯を詳しく追いながら、彼がいかに他の外国人に比して、より重要な人物であったのかを5回にわたって明らかにしたい。なお、本シリーズにおいては、年月日は西暦をメインで、和暦をサブで表記する。

サトウの生い立ちと北京派遣

 1843年(天保14)6月30日、サトウはドイツ人の父デーヴィッド、イギリス人の母マーガレットの3男としてロンドンで生まれた。父は、当時スウェーデン領であった北ドイツの港町ヅイスマールで、ロンドンと取引をする貿易業の家に生まれたが、一家は「大陸封鎖令」(ナポレオン1世のイギリスに対する経済封鎖作戦、1806年、文化3)を逃れてラトヴィアのリガに移り住んだ。

 1825年(文政8)、父はロンドンに移住して金融業を営み、1832年(天保3)に母と結婚、6人の男子と5人の女子が誕生した。イギリス国籍を取得したのは、サトウが生まれた3年後であった。経済力があり、子女の教育に熱心で宗教心にあつい両親に育てられたサトウは、非国教徒に開かれていた、自由主義的学風の大学、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学したのだ。つまり、その後に密航留学した長州ファイブや薩摩スチューデントとは同窓になる。

 サトウは、兄エドワード図書館から借りてきたオリファント著『エルギン卿遣日使節録』(1859年、安政6)を読んで、日本に大きな関心をもった。カレッジ在学中の1861年(文久1)、サトウはイギリス外務省の中国・日本領事部門通訳生試験に首席で合格し、8月に日本領事部門の通訳生の職を得た。在学2年で卒業するための学位を取得し、11月にサザンブトン港から極東に向けて出発したのだ。

 ここで、サトウに多大な影響を与えた『エルギン卿遣日使節録』の著者、ローレンス・オリファント(1829−1888)について、紹介をしておこう。ケープタウン出身のイギリスの外交官で、1858年(安政5)にエルギンの秘書として来日した。この時、日本側の全権であった岩瀬忠震と親しくなっており、英語のレッスンなどをしている。

 駐日イギリス公使館1等書記官に任命され、1861年に再来日したが、同年5月28日、江戸高輪東禅寺の仮公使館で水戸浪士の襲撃を受け、重傷を負ってしまい帰国した。いわゆる、第1次東禅寺事件である。帰国後、国会議員となり、薩摩スチューデント寺島宗則による対イギリス外交交渉を積極的に支援した。日本で大怪我を負いながら、終生、親日家であったのだ。1888年(明治12)12月23日、59歳で死去した。

サトウの上海・北京時代の活動

 1862年(文久2)1月、サトウは上海に到着し、2ヶ月半の間、領事館の仕事を補助した。このころは、太平天国の乱のまっただ中であった。太平天国とは、中国清朝末期、洪秀全を指導者とする上帝会を中心に建てられた国のことである。1851年に広西省桂平県金田村に挙兵し、新国家樹立を宣言して、1853年には南京を占領、天京と改め首都とした。キリスト教思想のもとに、清朝打倒・土地私有反対・経済的平等をうたったが、1864年、曽国藩・李鴻章・ゴードンらの連合軍によって鎮圧された。

 サトウは上海滞在時、太平天国軍や英仏軍、そして外人部隊の常勝軍の動向を、日記に書き留めている。そして、3月に北京に向かい、4月には北京公使館に到着した。その後の4ヶ月間、中国語書記官ウェートの監督の下、日本語学習の準備として、漢字や漢文などの学習に専念したのだ。その間、乗馬で旧跡を探訪するなど、北京滞在を謳歌している。

 次回は、いよいよ日本に赴いたサトウの動向を、生麦事件、四国艦隊下関砲撃事件、鎌倉事件を中心に追っていこう。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  シーボルトの来日から200年、禁制品持ち出しによる国外追放と日本との関係

[関連記事]

幕末史前半は「公武合体」ではなく「未来攘夷」と「即時攘夷」の対立だった

「攘夷」によって動かされた幕末、積極的開国論から「未来攘夷」への転換

アーネスト・サトウ