サッカー2026年ワールドカップ(W杯)アジア2次予選の日本と北朝鮮の一戦が21日、東京の国立競技場で行われ、日本が1-0で勝利した。前半に先制された後も再三にわたり日本に決定的場面を作られながら、最少失点でしのいだ北朝鮮も善戦したと言える。

北朝鮮サッカーを巡っては、重要な試合で「負けたら炭鉱送り」ということが長年にわたり言われてきた。筆者は、少なくとも近年では、そのようなことはないと考えている。だが、火のない所に煙は立たぬ、である。

かつて大活躍した北朝鮮サッカー選手が、炭鉱に送られたという話が実際にある。アジアプレスの李鎮洙記者は2010年6月23日付の「北朝鮮 44年前、炭鉱送りになったW杯代表選手たち」と題した記事で、次のように書いている。

北朝鮮北部の咸鏡北道に、褐炭の生産地として名高い阿吾地(アオジ)炭鉱がある。この炭鉱に、1967年のある日、3人のサッカー選手が送られた」

この3人の名は朴斗翼(パク・トゥイク)、申英奎(シン・ヨンギュ)、そして李賛明(イ・チャンミョン)だという。いずれも1966年W杯でアジアの国家として初めてベスト8入りした選手たちである。中でも朴斗翼は、グループリーグ最終戦のイタリアとの試合で決勝ゴールを決めた英雄だ。

李記者の記事は、当時その炭鉱で働いていた脱北者の文敏男(ムン・ミンナム)さんにインタビューしたものだ。彼らが炭鉱送りになったのは「負けたから」ではなく、重要な試合前に現地女性と「一夜」を共にしたことにあったという。

そもそも、北朝鮮サッカーなどスポーツに限らず、何かに失敗したら「思想の腐敗」にその原因を求め、重労働によってそれを矯正するやり方を好む。高官たちも「革命化」という名の労働キャンプにしばしば送られており、そこにはほかの人々を緊張させるための「見せしめ」の意味もある。そして、その最たる形が公開処刑だ。

もっとも、朴斗翼らの炭鉱送りは数カ月で終わったらしい。彼はその後、1976年1990年に代表監督を務めた。2008年の北京オリンピックに際しては、北朝鮮の平壌を走る聖火ランナーに選ばれている。

北朝鮮のスポーツ選手の中にはほかにも、炭鉱送りほどではないにせよ、懲罰的な無報酬労働に従事させられた経験のある人が少なくないと聞く。

つまり、「負けたら炭鉱送り」は全く根拠のない話ではないが、それで「一巻の終わり」というわけでもないということだ。

2010年サッカーW杯の最終予選で韓国の朴智星にタックルする金英俊(左、ニューシスKorea)