ライトニングケンジロウと呼ばれた篠塚さんが業界にもたらした功績は大きい(C)Getty Images

 世界で最も過酷といわれたダカールラリーを日本人で初めて制覇した「ミスター・パリダカ」こと元三菱自動車工業の篠塚建次郎さんが3月18日、膵臓がんのため長野県内の病院で死去した。75歳だった。

 かつてはフランス・パリからセネガル・ダカールを目指すルートだったことからパリ―ダカール・ラリー、通称「パリダカ」とも呼ばれ、アフリカサハラ砂漠を2週間近くかけて走破したアドベンチャー要素の強い競技だった。

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 ところが2008年に現地の治安悪化で大会が中止となり、翌年からは「ダカール」の名を掲げながら縁もゆかりもない南米に大会そのものが大移転。現在はサウジアラビア国内を舞台に競技が続けられている。

 自身が参戦するはずだった08年を最後にパリダカは勇退したが、現役ドライバーとしての活動は続行。東南アジアのアジアクロスカントリーラリーやソーラーカーレースにも挑み、2019年にはパリダカ時代の大会関係者や選手らが興したラリーレイドイベント「アフリカエコレース」にも出場。久しぶりにサハラ砂漠を踏み締めた。

 篠塚さんは世界ラリー選手権WRC)で唯一の日本人ウイナーで1991、92年のアイボリーコーストラリー(アフリカ)を制し、1997年のダカールラリーで日本人初優勝を果たしたラリー界のレジェンドだったが、今では珍しいアマチュア選手だった。

 大学卒業後の71年に三菱自動車に入社。社業の一環で大学時代から継続したラリーに打ち込み、いきなり国内ラリーで2年連続王者に輝き、海外ラリーにも挑戦。76年のWRCサファリラリーで総合6位を獲得した。ラリーに出場する週末以外はオフィスワークに従事した。一般スポーツの実業団選手と同じライフサイクルだった。

 ところがオイルショック後の排ガス規制強化で三菱がモータースポーツのワークス活動を中止。篠塚さんはサラリーマン生活に専念することになる。篠塚さんも販売促進部に籍を置いてイベント企画などを行い、三菱のモータースポーツ復活の機会を待った。

 その足掛かりがパリダカだった。86年に俳優の夏木陽介とともに三菱パジェロで初出場し、8年ぶりに選手活動を再開。総合46位で見事に完走を果たした。当時は37歳でプライベートチームからの参戦だったが、翌87年に総合3位を獲得し、88年に晴れて三菱のワークスドライバーの一員に加わった。脂が乗るはずの30代前半を棒に振ったものの、6位に入った76年のサファリで「ライトニング(稲妻)ケンジロウ」と呼ばれた切れ味抜群のドライビングは健在だった。

 プロ野球、柔道、大相撲マラソンサッカーレスリング車いすテニス国民栄誉賞を受けたスポーツ選手は多いが、モータースポーツ選手はなぜか世界一になっても俎上に載らない。米インディ500を2度制した佐藤琢磨内閣総理大臣顕彰を受けただけ。95年に関谷正徳が日本人で初めてルマン24時間優勝を果たした際も永田町が大きな関心を示すことはなかった。篠塚さんもそうだった。

 篠塚さんは生前に「僕が三菱に入ったころは『ラリーをやっている』と言ってもラリー自体を誰も知らなくてね」と語っていた。それでも1980年代90年代のパリダカは篠塚さんの活躍もあいまってテレビの朝の情報番組でも取り上げられるようになり、シンガーソングライターの松任谷由実を魅了させたほど。篠塚さんはラリーの知名度を上げた功労者の1人。もっと称賛されてしかるべきである。

[文/構成:ココカラネクスト編集部]

ミスターパリダカ・篠塚建次郎さんが75歳で死去 現役時代はサラリーマン選手だった