作家の樋口裕一氏の妻である紀子さんが、2021年4月に子宮体癌が見つかり、1年あまりの闘病生活ののち、61歳で亡くなった。その間、家族が時に絶望し、検査結果に一喜一憂し、うろたえるなか、妻本人は泰然としていて、死を恐れて嘆くことなく、苦しみを口にすることもなかったという。

樋口氏から見ると、妻は達観した人間でもなく、高僧のような人格者でもなく、普通の人だったという。では、なぜそのような最期を迎えることができたのか。

■死の間際も泰然としていた妻…「あっぱれな最期」の秘訣は?

『凡人のためのあっぱれな最期 古今東西に学ぶ死の教養』(樋口裕一著、幻冬舎刊)では、フランス文学アフリカ文学の翻訳家として活動するかたわら、受験小論文指導の第一人者として活躍している作家、多摩大学教授、アフリカフランス文学翻訳家の樋口裕一氏が、妻の人生を振り返りながら古今東西の文学・哲学を渉猟し、よりよく死ぬための生き方を問いていく。

夫である樋口氏を含めて、誰にも死について嘆くことなく、苦しみを口にすることもなかった妻の最期に驚嘆し、なぜそのような最期を迎えることができたのか、樋口氏は疑問に思うばかりだった。そこで、妻の日常を思い出し、妻の人となりを思い出してみた。おそらく妻の経歴や行動の隅々の生き方、死に方が表れていると考え、そうしたことを振り返り、検証していく。

妻の特徴で樋口氏が思いつくのは、自分を特別扱いしなかったということ。自分は特別な存在ではなく、誰もが死ぬのだから、過大な評価もしなかった。とはいえ、自己評価が特別に低かったわけでもない。かなり勝ち気で、誰かに何かで負けると悔しがり、樋口氏や家族に過小評価されていると察すると、すぐに異議を申し立て、怒ったり、不機嫌になったりした。過小評価されたままになるということはなかった。

自分を過小評価することも、過大評価することもなく、客観的に自己評価をしていたのだ。また、自分は特別なことが起こるといった言葉を妻から一度も聞いたことがないという。ただ、自分は特別という意識は誰にでもあるもの。樋口氏は、「自分は特別だ」という意識が生まれたら。「自分はありふれた人間だ。どこにでもいる人間だ」と言い聞かせることが、強すぎる自己意識から逃れる手段にもなると述べる。

樋口氏はあっぱれな最期を迎えたいと思うとき、妻の生前の生き方を参考にしていきたいと思っているという。誰もがいつかは迎える自分の最期。そのときをどう迎えるのか。人の生き方、死に方についてのヒントにあふれる1冊だ。

(T・N/新刊JP編集部)

『凡人のためのあっぱれな最期 古今東西に学ぶ死の教養』(樋口裕一著、幻冬舎刊)