ニューヨークを拠点にクラシックのみならず幅広いジャンルで活躍するピアニスト・角野隼斗が、現在自身最大規模の全23公演を巡る全国ツアー “KEYS” を開催中だ。

先般、日本人演奏家4人目となる、ソニークラシカルとのワールドワイド契約を締結したことを発表するなど世界で躍進を続ける角野。7月14日(日)には日本武道館公演も控えている。2024年1月東京エレクトロンホール宮城を皮切りにスタートした本ツアーは、3月23日(土)森のホール21 大ホールにて行われる千葉公演で閉幕。千秋楽の模様はイープラス「Streaming+」にて配信予定だ。

SPICEでは、3月6日(水)サントリーホールにて行われた公演の模様を、音楽ライターの高坂はる香氏のレポートでお届けする。(編集部)

“KEYS”――鍵、鍵盤、調性。角野隼斗の2024年春のツアーは、いくつもの音楽表現にまつわる意味を持つこの言葉がコンセプトだ。

プログラムのはじめに角野は、“鍵盤という白黒の世界に、果てしない宇宙が広がっている”と記していたが、キーを押し下げると音が鳴るこの楽器が秘める無限の可能性を探り、“本気で遊ぶ”喜びが伝わってくるコンサートだった。

前半は、アコースティックのコンサートグランドピアノ1台のみを使った演奏。バッハの「イタリア協奏曲」は、一音目から立ち上がりの良い音を鳴らし、装飾音の遊びも軽やか、生き生きとしたリズムが刻まれていった。
続くモーツァルトのピアノソナタ第11番「トルコ行進曲つき」は、角野持ち前のサラサラとした爽やかな音色をベースに、時々空気を変えながら音楽を展開する。
これらはいずれも、今の形のピアノが生まれる前に作られた作品。“KEYS”をテーマとするこの公演において、モダンピアノの純粋な魅力を聴かせるパートだったといえる。

続いて演奏されたのは、そのトルコ行進曲からテーマをとった角野による作品で、「24の調によるトルコ行進曲変奏曲」。そのタイトルの通り、すべての調性を使った変奏からなり、“転調好きが高じて書いてしまった曲”だという。
始めのテーマから、オリジナル版「トルコ行進曲」で聴かせたニュアンスを引き継いだ表現があって前曲からの流れを感じる一方、直球のモーツァルトからは大きく異なる自由な音楽が奏される。さまざまなジャンルを思わせる表現も現れ、調性とともに時代や場所まで変わっていくようだ。角野の音楽性と、鍵盤楽器への愛着、好奇心がひしひしと伝わってきた。

後半は、コの字型に並べられたいくつもの鍵盤楽器が角野を囲んだ状態でスタート。角野自作の「大猫のワルツ」はチェレスタオルゴールのような音ではじまり、体が大きいという角野の実家の猫の愛らしい仕草を思わせた。
その後は、オーケストラ曲を鍵盤楽器のみで演奏してゆく。
「当時(1920年代後半)のパリのにぎやかな街並みを想像しながら聴いてほしい」という言葉と共にスタートしたガーシュウィン/角野編「パリのアメリカ人」は、グランドピアノ、アップライトピアノ、チェレスタ鍵盤ハーモニカを駆使して、オーケストラとはまた違った立体感と、一人で奏でるからこその自在さを最大に活かした演奏。チェレスタや、独特の音がする角野のアップライトピアノの効果だろうか、普通の色鮮やかさというよりは、モノクロ映画の躍動感あふれるシーンを観ているようなおもしろさがあった。

そして暗転したステージで弾き始められたのは、やはり角野の編曲によるラヴェルボレロ」。始まりから、この音楽がどう膨らんでいくのだろうかという期待感しかない。細工されたアップライトピアノの音が、この美しくもどこか歪みのある音楽世界と絶妙にマッチしている。背面にあるチェレスタも同時に弾くという離れ業も見せつつ、不協和音の効果を際立たせながら音を重ね、華やかなフィナーレを迎えた。

「僕のスタジオをそのままステージに持ってきて、好奇心の赴くままに演奏した。鍵盤音楽の楽しさが伝わっていたらうれしい」と角野。
アンコールとしてまず演奏されたのは、最近の自作曲だという「ノクターン」。どこか遠い国で、靄の中少しずつ明るくなっていく空を見ているような、幻想的な作品。
そして最後は「キラキラ星変奏曲」。このツアー中、公演ごとに別の調性を選んで弾いているということで、3月6日(水)サントリーホール公演は変イ長調。ポップでエネルギッシュ、ときにミステリアスな音楽が流れ出す。会場はスタンディングオベーションに包まれて、この日のコンサートは幕となった。

取材・文=高坂はる香 撮影=RyuyaAmao