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 今や軍や警察関係者には欠かすことのできない防弾チョッキだが、いつ、どこで、誰によって発明されたものなのか?

 知らなくても困らないけど、知っていればちょっとした話のネタになるかもしれない、そんな防弾チョッキの起源について紐解いていこう。

 最初に発明したのは、なんと聖職者のである司祭だったのだ。

 

【画像】 シカゴ市長銃撃に胸を痛めたポーランド移民の聖職者

 1893年10月28日、米イリノイ州シカゴの市長カーター・ハリソンが自宅の入り口で銃撃され、シカゴの町の静寂が破られた。

 この暗殺に全米市民がショックを受けたが、もっとも衝撃を受けたのは、ポーランド移民のカシミール・ゼグリンだった。

 誠実で深い精神性を備えた聖職者のゼグリンは、アメリカに来て以来、公人をターゲットとしたたび重なるアナーキストの暴力に深く心を痛めていた。

 この混沌と流血の蔓延に立ち向かおうと心に決めたゼグリンは、多くの命を救えるかもしれない解決策に創意工夫を傾けた。

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 彼の発案である革新的な軽量防弾チョッキは、通常の服装の下に目立たないように着用できるようになっていて、防弾チョッキを身に着けていることを暗殺者に気づかれることなく、彼らの計画を阻止することができる。

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1923年の防弾チョッキ性能試験 / image credit:Library of Congress

試行錯誤の末、シルクの防弾特性に気が付く

 カシミール・ゼグリンは、1869年にポーランド、ガリシア州タルノボリ近郊で生まれた。当時、この地域はオーストリアハンガリー帝国に占領されていた。

 18歳になったゼグリンは、修道院生活を始め、イエス・キリスト復活の会に加わった。

 だが、運命は祖国の閉ざされた修道院の壁を越えて彼を手招きし、1890年に米国へと導いた。この国での彼の創意工夫は、まもなく歴史に消えることない痕跡を残すことになった。

 渡米した彼は、シカゴで起こった悲劇を境に、命を守る防弾チョッキ作りに没頭した。

 それから2年間、彼は剛毛、スチールウールウールと綿などさまざまな素材で実験を繰り返した。

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 だがその結果は失望ばかりだった。彼が作った装備は、思い描いていた軽量で楽に着用できるものというより、中世の鎧の胸当てのようになってしまったからだ。

 ゼグリンの画期的な発明が実を結んだのは1895年のこと。

 シルクに驚くほど防弾特性があることに気づいたときだった。ただこの気づきはまったく新発見というわけではなかった。

 1881年にはすでに、アリゾナ州トゥームストーンのジョージ・E・グッドフェロー博士がこの事実を観察していた。

 博士は遺体の検死中に、被害者のポケットの中に入っていたシルクのハンカチが銃弾の衝撃を和らげていたことに気づいたのだ。

 そこからヒントを得た博士は研究と実験を繰り返し、シルク生地を重ねたベストを作り出した。

 しかしグッドフェロー博士は開発を遂げることなく最終的に医療の仕事に戻り、この概念を洗練・完成させる仕事はゼグリンへと引き継がれることになった。

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カシミール・ゼグリン

努力が報われ1896に防弾チョッキの特許を取得

 ゼグリンは、弾が貫通しにくい生地を作り出す秘訣は、適切な織り方と生地の厚さにかかっていることがわかっていた。

 織りのテクニックを学ぶため、ゼグリンは熟練した織工がたくさんいるウィーンドイツのアーヘンへ向かった。

 彼らの指導のもとで技術に磨きをかけ、糸を織る複雑さを学び、柔軟かつ頑丈な織物を作り上げた。

 1896年、新たに発見した専門知識を武器に、ゼグリンは自分の革新的な発明品の米国特許を申請した。

 1年もたたないうちにその努力は報われ、画期的な新型防弾チョッキとして2つの特許を取得することになった。

 作家のスワウォミール・ウォティス氏は『Tailored to the Times: The Story of CasimirZeglen’s Silk Bullet-Proof Vest』の中で、ゼグリンの防弾チョッキがどのように作られたかを説明している。

コーティング層として高密度に織り込まれたリネンの布を使い、その下にアンゴラウールを加えた。

次はメインのシルク層で、これは織り込むのではなく、きつく積み重ねられた紐が何層にもなっている。

連続する各層の糸は、前の層の糸に対して斜めになるように配置されている。しっかりした絹糸で縫いあげられ、全体としてコンパクトにしまった作りになっている。

このようにして作られた生地が銃弾に耐えられるのは、シルク繊維の強度の高さとそれらが敷かれた層の数というふたつの要因の組み合わせの賜物だ

防弾チョッキを防御力を人前でデモンストレーション

 ゼグリンは、自分の発明を世間に知らせるために、警官、軍人、ジャーナリスト、一般の人々を招いてデモンストレーションを行った。

 この防弾布を巻いた木のブロックに向かって実際に発砲してみたのだ。さらに、人間の遺体と動物の遺骸を使ってテストしてみた。

 これが成功すると、ゼグリンは生きた人間をターゲットにした。

 この防弾チョッキの性能をテストするために、多くのボランティアが自らの体を張った。

 これ以上、人々を危険にさらすわけにはいかないと思ったゼグリンは、科学のために命を犠牲にしなくてはならないとしたら、それは自分だと心に決めた。

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シュクゼパニクの友人ボルジコフスキ氏は、1901年に使用人に防弾チョッキを着せて防弾試験を行った

クラッグ・ヨルゲンセン・ライフルの弾を阻止したい

 ゼグリンの最大の課題は、クラッグ・ヨルゲンセン・ライフルの弾を阻止することができる防弾チョッキを設計することだった。

 1894年に米軍に導入されたこの兵器で使われた弾丸には当時の革新的な無煙火薬が使われていた。これにより初速がおよそ600m/sとなり、リボルバー弾の最大2~3倍もの威力が出る。鉄で覆われたこの弾丸は、厚さ50cmのオーク材の梁を600m離れたところから貫通させることができた。

 ゼグレンの防弾チョッキでは弱すぎて、これほどの勢いをもつ発射体を止めることはできなかった。

 ゼグレンは、手織りでは恐るべきクラグ・ヨルゲンセンライフルの弾丸を阻止できる防弾チョッキを完成させることはできないことがわかっていた。

 その解決策は機械化、つまり効果的な防弾に不可欠な弾力性のあるしっかり織られた生地を作ることができる機械織機にあった。

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M1892クラッグ・ヨルゲンセン小銃試作型 / image credit:public domain/wikimedia

コストの壁、協力者の裏切り

 だが、そのような特殊な機器を手に入れるのは至難の業だった。そこで、ゼグリンはヨーロッパへ向かい、自分のビジョンを実現するのに必要な専門知識と機械を探し求めた。

 そしてその創意工夫で知られ、さまざまな分野にわたる発明で多大な功績をあげていることから〝ポーランドのエジソン〟の異名をもつ発明家、ヤン・シュクゼパニクと出会った。

 シュクゼパニクは、繊維業界プロの専門知識を活用してすぐに仕事に取りかかり、ゼグリンが手作業で作ったものよりも改良された生地を作った。

 強化されたこの材料を携えて、アメリカに戻ったゼグリンは、熱心に法執行機関に自分の発明品を売り込んだ。

 だが、製造ラインを立ち上げようとした彼の試みは、防弾チョッキの製造に関わる膨大なコストによって阻まれることになった。

 一方、ヨーロッパではシュクゼパニクがシルク防弾チョッキは自分だけの発明だと主張し始め、ロシアを含む外国企業との取引を模索していた。

 この裏切りを知ったゼグリンは、かつてのパートナーとの縁を切った。

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ポーランドのエジソン、ヤン・シュクゼパニク

彼の名が世に出る前に死亡

 しかし、シュクゼパニクのような巧みなビジネス洞察力を持ち合わせなかったゼグリンは、自分の発明に投資してくれる投資家の関心を確保するのに相当苦労した。

 それまでゼグリンの教会は、彼の発明に資金援助していたが、そのうち信徒たちですら援助を拒むようになり、ゼグリンは失望した。

 結局、彼は教会と袂を分かち、ほかの道を探すことになった。

 だがそのまま次第に彼の名前は忘れ去られ、無名のまま1927年に亡くなった。彼の貢献が広く世に認識されることもなかった。

 ゼグリンのシルク製防弾チョッキの歴史は、1913年5月の公開デモンストレーションを最後に幕を閉じた。

 この防弾チョッキは、木の板に吊り下げられ、かつて多数の試験で使われた32口径リボルバーの弾丸を撃ち込まれたが、このときはまるで穴だらけのスイスチーズのようになってしまった。

 ゼグリンはこの失敗の原因はシルクの生分解のせいだと考え、さらなる試験のために新しいものを提供すると誓った。残念なことに、彼がこの約束をやり遂げたという証拠はない。

 ゼグリンの防弾チョッキは、銃器の破壊力が上がると効果がないことがわかった。

 人間が身に着けやすい柔らかな装甲具という概念は論理的には正しいが、その概念に見合うほど強力な合成繊維が登場するのは、ゼグリンの時代から遥かに後のことだ。

「カシミール・ゼグリンが、実用的な防弾チョッキの最初の発明者であることは間違いない」スワウォミール・ウォティス氏は書いている。

彼の概念は結局は廃止され、この分野の技術開発にさらなる大きな影響を与えることはなかった。

彼のアイデアが影響力をもつほどではなかったのは、その後の100年間、さまざまなタイプの装甲具を発明した発明家のうち、ゼグリンの特許を参考にした者はごくわずかで、大半が独自に解決していたことでもよくわかる

防弾チョッキで名を馳せなかったが他の分野で名を遺す

 しかしながら、ゼグリンのアイデアはまったく異なる技術に影響を与えた。

 それはタイヤだ。ゼグリンは織物の知識を生かし、強いシルク構造を車のタイヤの強化に応用した。そこで獲得した2つの特許が新会社「The Zeglen Tire & Fabric Co」立ち上げの基礎となった。

 支援者を見つけることはできなかったが、ゼグリンは防弾生地の開発をやめなかった。

 最後の特許として、1898年に改良型1層防弾生地と同様の方法で、金属装甲板を考案した。

 さらに、溶かした柔らかな金属で満たした硬いワイヤを巻き合わせた立体的なメッシュを使うことも提案した。

 この革新的な発明は注目を集め、とくに宇宙船用保護コーティングという分野で、その後の特許でも言及され、従来の装甲具にとどまらない応用の可能性を浮き彫りにした。

References:Casimir Zeglen: The Priest Who Invented The Bulletproof Vest | Amusing Planet / written by konohazuku / edited by / parumo

 
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知られざる偉人。世界初の防弾チョッキはポーランドの司祭が発明した