大和型戦艦を改装した装甲空母「信濃」は1944年11月に未完成のまま出港し、潜水艦の魚雷で撃沈されました。もし完成していたら、もし戦艦のまま竣工していたら、その後の日本の戦局はどうなっていたでしょうか。

艦政本部と軍令部の折衷案に

日本海軍航空母艦「信濃」は、1961(昭和36)年にアメリカの原子力空母「エンタープライズ」が就役するまで、世界最大の空母でした。基準排水量6万2000トン、搭載機42機(「信濃」戦友会によれば、小型機で飛行甲板への露天係止も行うと86機)、75+20mmの飛行甲板装甲を誇る同艦は、世界最大の大和型戦艦を改装して装甲空母としたものです。

しかし同艦は、様々な思惑が絡み合い完成が遅れ、未完成のまま戦場へ出、あえなく沈められてしまいました。もし予定通りに竣工し、期待された能力を発揮していれば、歴史が変わっていたかもしれません。

1940(昭和15)年5月に横須賀海軍工廠第6船渠(ドック)で起工された「信濃」は、順調に戦艦としての工事が進みます。しかし同年末に、機関部艦底を三重底に強化するよう設計変更され、工事が3か月遅れます。

さらに日米関係悪化を受け、開戦時は「戦艦としての建造は中止」と判断。海軍艦艇の建造計画を担当する艦政本部は、「信濃」(当時は「110号艦」)の空母改造を検討しました。

ところが艦政本部と作戦を立案する軍令部では、「信濃」に対する見解が異なりました。艦政本部案は大和型戦艦の重防御船体に加え、飛行甲板にも重防御を施す「中継空母」でした。自衛用戦闘機以外の搭載機は持たず、味方艦隊に先行することで、味方空母からの航空隊を中継しようと考えていたのです。味方艦隊に先行すると、敵艦隊と遭遇する可能性が高いということで、超甲巡用として計画されていた31cm主砲塔の搭載も検討されていました。

これに対し軍令部は、艦上戦闘機(艦戦)、艦上爆撃機(艦爆)、艦上攻撃機(艦攻)をバランスよく搭載した、通常型の空母を考えていました。そして「艦政本部案のような装甲空母とするが、主砲塔は搭載しない。艦載機格納庫も設け、艦戦、艦攻、艦上偵察機を搭載する」という折衷案となったのです。

未完成のまま出港… あえなく撃沈された

空母化決定は1942(昭和17)年6月のこと。議論の末、基礎設計が終わったのは同年9月でした。つまり「信濃」は、1941年12月の太平洋戦争開戦後も、戦艦としての建造中止からの10か月間、ペースを落として建造されていたことになります。この間、第6船渠で雲龍型空母2隻を同時建造するという理由で、「信濃」は解体も検討されましたが、ようやく空母としての工事が始まったのです。完成時期は1945(昭和20)年2月とされました。

しかし、工事開始後も横須賀工廠の人手不足により、「信濃」は3か月間放置されます。それにも関わらず、1944(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦で日本の空母戦力が大打撃を受けたのを踏まえ、完成時期が4か月前倒しされ1944年10月に。超突貫工事で進水にこぎつけた「信濃」でしたが、ドック内での事故もあり、同年11月に未完成のまま横須賀港を出港します。

艦内で工事が続き、機関部も未完成ゆえに最高速度27ノット(50km/h)も発揮できない「信濃」は、水防扉が開かれている状態でアメリカ潜水艦の魚雷を受け、出港翌日に撃沈されたのでした。

こうした理由から実戦で真価を発揮しなかった「信濃」。完成していたら、同艦が戦局に寄与した可能性はあったでしょうか。前述の通り、建造中に合計17か月も工事が遅延・停滞していたのですから、その辺りを何とかできれば、完成時期を早められそうとも思えます。

また「信濃」建造開始の1940年5月は、横須賀海軍工廠第6船渠が完成した月です。第6船渠が史実より早く完成すれば(新井堀運河を仕切る早期完成案が存在)、「信濃」建造が早められたとも考えられます。

レイテで戦艦「武蔵」が助かったか?

もし1年前倒しで、「信濃」の建造訓令が出た1939(昭和14)年に建造が始まっていたら、開戦時には進水済みとなります。この場合、戦艦として建造を続けていれば、1943(昭和18)年3月ごろの就役となります。日本はアメリカが戦艦を大量建造していることを把握していたので、対抗するうえでも、最後まで戦艦で建造された可能性も考えられます。

ただ戦艦とする場合は、大和型の主砲塔を運搬できる給兵艦「樫野」が1942年9月に撃沈されているため、主砲塔搭載のため呉に回航する必要があったでしょう。

晴れて完成した戦艦「信濃」は、マリアナ沖海戦で艦隊前衛を務め、なお稼働できる状態ならレイテ沖海戦では大和型戦艦が3隻になるので、攻撃が分散し、もしかしたら「武蔵」は助かったかもしれません。大打撃を回避できた日本の戦艦部隊が、サンベルナルジノ海峡を封鎖したアメリカの戦艦部隊と夜戦を交わした可能性もあります。

一方、ドック完成時期を史実通りとしても、三重底への変更中止、日米開戦に備えあらかじめの空母化設計がなされたうえで、111号艦(大和型戦艦4番艦)を破棄し資材を110号艦(信濃)に集中させていれば、早期に空母として完成していたでしょう。

この場合は空母「大鳳」と同じ、1944年3月には就役していたでしょうから、広大な飛行甲板で航空機の離発着がしやすい「信濃」はマリアナ沖海戦に投入され、大和型戦艦2隻と共に、艦隊前衛で奮戦しそうです。海戦の結果はほぼ変わらないと思いますが、続くレイテ沖海戦ではその重防御により、囮艦隊旗艦として、より多くの米軍機を引き受けていたかもしれません。

旧日本海軍の空母「信濃」。大和型戦艦を改装した(画像:アメリカ海軍)。