大河ドラマ『光る君へ』では、毎熊克哉が演じる散楽一座で義賊の直秀が人気を集め、第9回「遠くの国」で非業の死を遂げたときには、視聴者に大きな衝撃を与えた。「直秀ロス」におちいった方も多いのではないだろうか。直秀はドラマのオリジナルキャラクターとされるが、SNSなどで、直秀のモデルの一人ではないかと噂されるのが、藤原保輔(ふじわらのやすすけ)である。藤原保輔とはどのような人物なのだろうか。

JBpressですべての写真や図表を見る

文=鷹橋 忍 

追討宣旨を十五度出された大盗賊?

 藤原保輔は、藤原不比等の長男・藤原武智麻呂を始祖とする「藤原南家」に属する。

 祖父は大納言藤原元方、父は右京大夫藤原致忠(むねただ)である。

 生年はわかっていない。

 官暦は正五位下、右馬助、日向権介である(関幸彦『藤原道長紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)。

 歌人の和泉式部の夫で、藤原道長の家司となった藤原保昌(やすまさ)という兄がいるが、保昌に関しては後述する。

 保輔は大盗賊だったといわれ、南北朝時代に編纂された諸家の系譜集『尊卑分脈』に、「強盗張本、本朝第一武略、追討宣旨十五度」と記されている。

 秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』によれば、保輔は寛和元年(985)正月に下総守藤原季孝の顔面を刃傷する事件を起こしている。

 保輔の兄・藤原斉明も、同年正月に凰稀かなめが演じる赤染衛門の夫・大江匡衡に傷を負わせ、共に追われたが、斉明は近江国で首を取られ、保輔は逃亡した。

 鎌倉初期の説話集『宇治拾遺物語』の巻第十一「二 保輔盗人たる事」には、盗賊団の首領である保輔が、自分の家の奥に造った蔵の床下に深い穴を掘った。保輔は商人を呼び入れて、持ってきた物を奪い取り、手下に命じて、この穴に突き落とした。保輔に物を売りにいった商人のなかで、戻ってきた者はいない。だが、誰も保輔を捕らえることはできなかった、という説話がみられる。

 保輔は事件を繰り返し起こしたが、ついに捕らえられ、永延2年(988)6月17日に、獄中で自害した。

 鎌倉前期の説話集『続古事談』によれば、保輔は割腹すると、自らの手で腸を引っ張り出したという。

伝説上の大盗賊「袴垂」と同一視される

 保輔は後世、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話集に登場する、伝説上の大盗賊「袴垂(はかまだれ)」と同一視され、袴垂保輔と呼称されることもあるが、二人は分けて考えるべきだという(関幸彦『武士の原像 都大路の暗殺者たち』)。

 平安後期の説話集『今昔物語集』巻第二十五「藤原保昌の朝臣盗人の袴垂に値ふ語 第七」では、袴垂を「盗人の大将軍(盗賊の大首領)」と称し、「度胸がよく、力強く、足早く(動きや行動が俊敏)、腕っ節も強く、頭も良く、「世に並びなき者」と褒め称えたのちに、以下の説話を記している。

 10月の朧月の夜、衣服が入り用になった袴垂は、少し手に入れようと、あちらこちら歩き回っていた。

 真夜中ごろであり、人々は寝静まっていたが、ただ一人、笛を吹いて、ゆったりと歩いている者がいた。

 袴垂はその笛の男を襲って、衣服を強奪しようと思ったが、なぜか、恐ろしく感じ、手が出せなかった。

 しばらくあとをつけていた袴垂だが、意を決して、笛の男に襲いかかった。だが、どうにも恐ろしく、袴垂は膝をついてしまう。

 笛の男は袴垂の目的が衣服であることを知ると、袴垂を自邸に招き入れ、衣服を与えた。

 袴垂は死ぬほど怖くなり、家を飛び出したという。

 この笛の男こそ、前述した、保輔の兄・藤原保昌である。

兄は、紫式部の恋の相手?

 最後に、保輔の兄・藤原保昌を取り上げたい。

 保昌は天徳2年(958)に生まれたとされる。家司として仕えた道長は康保3年(966)生まれなので、保昌のほうが8歳年上である。

 保昌は武人として名高く、『尊卑分脈』にも「勇士武略之長」と称されている。

 道長にとって保昌は、かけがいのない存在であったようである。

 鎌倉中期の説話集『十訓抄』に、「頼信、保昌、維衡、致頼とて、世に勝れたる四人の武士也」 と、その名が挙げられ、『小右記』長和2年(1013)7月16日条には、「保昌は道長の一子のごとし」と記されている。

 保昌の妻・和泉式部も、寛弘6年(1009)ころに、道長の娘・見上愛が演じる中宮彰子に仕えており、このころ保昌と出会って、結婚したという(関幸彦『武士の原像 都大路の暗殺者たち』)。

 保昌自身も『後拾遺和歌集』の歌人である。

 紫式部の恋の相手と、推定する考えもあるという(関幸彦『藤原道長紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)。

 現時点では、藤原保昌役の俳優は発表されていないようだが、ドラマには登場するのだろうか。

【藤原保昌ゆかりの地】

●北岡神社

 平安時代の承平4年(934)年、藤原保輔の兄・藤原保昌が、肥後国司として下向した際に、京都の八坂神社の分霊を勧請して、創健したのがはじまりと伝わる。

 熊本県熊本市にある。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  『鎌倉殿の13人』主人公・北条義時の前半生と、源頼朝との関係

[関連記事]

『鎌倉殿の13人』北条氏最大のライバル・比企能員の生涯と一族の運命

『鎌倉殿の13人』鎌倉武士の鑑と称された畠山重忠の生涯と二俣川の戦い

北岡神社 写真=フォトライブラリー