平成元年である1989年は、今も語り継がれる、多くの「名車」が誕生した年でした。その背景には、当時の日本の社会情勢が色濃く反映していたと、自動車評論家である鈴木均氏は言います。鈴木氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、平成初期の自動車産業について見ていきましょう。

“国産車ビンテージ・イヤー”となった平成元年

ここでもう一度日本に目を転じよう。天安門事件に先立つことおよそ5ヵ月、1989年1月7日には、昭和天皇崩御の一報が列島を駆け巡っていた。戦前は現人神とされ、敗戦後の46年に人間宣言を発した裕仁は、激動の昭和の時代をまさに象徴する存在だった。

わずか7日間続いた「昭和64年」が平成元年と改められたこの年、多くの名車が誕生した。いつしか89年は「国産車ビンテージ・イヤー」と呼ばれるようになった。日本の年間生産台数は1,302万台に達し、10年連続で世界一を記録、輸入車登録も18万2,000台で史上最高を記録した。まさに、バブル真っ盛りである。

日産スカイラインGT-Rも、この時期に復活した。69年に華々しくデビューし、レースで圧倒的な戦績を残しながらも石油危機のあおりで売り上げが失速、73年に登場した2代目はわずか197台生産された後、数ヵ月で打ち切りとなってしまったGT-Rが、16年ぶりに復活したのである。直6エンジンにツインターボターボチャージャーを2基搭載)で280馬力を発生し、これを最新の四駆で路面に無駄なく伝えた。

レース参戦を前提に設計されたエンジンはその倍近い出力も許容するといわれており、デビュー早々にタイトルを総なめにした。そして鬼のような改造車も公道を闊歩した。オーストラリアに少量輸出された車両もレースで圧勝し、怪獣映画にちなんで「ゴジラ」のあだ名がついた。伝説は復活し、海を越えた。

GT-Rとは対照的に、全く新しいストーリーを紡ぎ出したのが、ホンダNSXである。F1で結果を出しはじめていたホンダには、スポーツイメージの旗艦が必要だった。開発にはF1ドライバー、アイルトン・セナ中嶋悟も参加し、世界で初めて車体を全て軽量なアルミで構成する、世界から注目されるスーパーカーが誕生した。

レジェンドのV6エンジンを大きく手直しし、これをF1マシン同様にドライバーの後ろに搭載するMRだった。1台1台、手作業で車が組み立てられた。価格は、当時で1台800万円だった。

NSXはドライバーの視界が良好で、ゴルフバッグも後ろに積める。デザインについては賛否あったが、フェラーリランボルギーニなど他のスーパーカーも、以降は「日常的な使い勝手」を考慮して車を作らざるをえなくなった。89年発売の後、92年には高性能版のタイプRが加わり、100キロ近い軽量化とエンジン内の部品を徹底的に見直すなどのブラッシュアップを受け、ドイツイタリアスーパーカーのようなアプローチを採用した。タイプRは、今もホンダのブランド・イメージの中心にある。

日本車は、世界的な車づくりの方向性に影響を与える存在に

ロータリー・エンジンを搭載したRX-7を擁するマツダは、異なるアプローチを選んだ。オープンルーフのスポーツカーは特に北米で多く流通していたが、どれも車体が大きくて重く、運転を楽しむよりも「見せびらかす」ものに近かった。ユーノス・ロードスターは小型車ファミリアに近いサイズの小さな車体に、ファミリーカー向けのエンジンをほどよく出力アップさせ、純粋に運転を楽しむための車として開発された。

車高が低くて狭い、2人乗りの車内に乗り込む所作は、茶室に入るイメージでデザインされた。マツダ・ロードスターは登場するやいなや日米欧で飛ぶように売れ、世界各地に輸出され、最も生産された2人乗りのオープン・スポーツカーとして、ギネス記録を現在も更新中である。

日本車は、単に「よくできた、お値頃価格のファミリーカー」を脱し、世界的な車づくりの方向性に影響を与える存在に成長した。バブル経済が戦後高度成長の総決算だったとしたら、その有り余る経済力は、このようなモノづくりの高度化にターボをかける役割を果たした。

89年には、この他にも、リトラクタブル・ライトを採用しミッドシップでエンジンを搭載するトヨタMR2(2代目)、これに対抗する日産シルビアの姉妹車180SX、そして北米仕様の出力が日本車で初めて300馬力に達した4代目の日産フェアレディZなどが登場した。

昭和の終焉に巻き起こった「不謹慎な」馬力競争は警察庁運輸省に目を付けられ、以降、2004年まで国内馬力自主規制(上限280馬力)が敷かれることになり、速度計の表示(と速度リミッターの作動)も時速180キロとされた。なお、欧州ブランドなどの輸入車は適用外だった。

そして、スバル・レオーネの後継として89年に登場したレガシィ・ツーリングワゴンGTが、新しいジャンルを拓いた。220馬力を発生するボクサー(水平対向)4エンジンで武装したGTは、家族全員を窮屈なスポーツカーに詰め込むわけにいかない(けれど半端なスポーツカーには負けたくない)お父さんたちにウケた。91年に登場したボルボ850、スカイライン譲りのエンジンで武装した日産ステージア(96年)と共に、90年代をとおしてヒットした。スバルは北米でボルボのシェアを食って市場を拡大し、現在のポジションを獲得した。

なぜ平成元年は“高級車元年”になったのか?

89年は、日本にとって「高級車元年」でもあった。国産・輸入を問わず、高級車の拡販につながったきっかけが、89年4月の消費税導入である。新車購入時の税負担が大幅に軽減されたことによって、メルセデス・ベンツの独壇場がさらに強化され、これにBMWアウディをはじめ、高級スポーツカー・ブランドが続いた。

この時代を最も象徴する車といえば、日産シーマであろう。シーマは日産セドリックプリンス(日産)グロリアの最上級車種として、3ナンバー車専用で開発された。トヨタ・クラウンの3ナンバー車にワイドボディーのモデルが追加されることに対する、対抗馬だった。シーマ登場の5年ほど前、乗用車のドアミラーが初めて許可された。ハイカラの象徴だった電動サンルーフが増えたのも80年代である。最新のハイテクを満載した3ナンバー車は、ステータスだった。筆者の小学校時代の友人の母が、真新しいセドリックのパワーウィンドウに頭を挟み、大騒ぎになっていたことを懐かしく思い出す。

我が家の日産パルサーは、手動でハンドルをクルクル回して窓を開けていた時代だ。ETCもない時代のため、高速の料金所で父は大変だった。小銭など落とそうものなら、2分間の停車が確定である。盆暮れ正月でなくても、料金所は常に渋滞していた。

ここで日本を代表するセダントヨタ・クラウンと日産セドリックグロリアの競争にも言及したい。国産車で初めてターボを搭載したのが79年のグロリアだった。スポーツカーにあからさまに装備して警察庁運輸省に目を付けられないよう、重い高級車の走行性能を向上するため、と称した。対するクラウンは85年、国産車で初めてスーパーチャージャーを搭載し、ロイヤルサルーンスーパーチャージャーとなった。これら飛び道具が当局から禁止されないとわかると、当然のように、スポーツカーに次々と実装した。

この崇高な争いの「頂上(スペイン語でcima)」に位置したのが、88年に発売された初代シーマであり、アメ車のごとき大きなV8エンジン、(羽が軽く高性能な)セラミック・ターボで武装した2代目シーマが91年に登場した。日産には最上位車種としてプレジデントがあり、その下ではトヨタ・ソアラと日産レパードが激しく競合していたが、シーマはそこに豪華さと圧倒的な速さで割り込んだ。余談だが、2021年、女優の伊藤かずえが登場当時から大切に乗り続けてきたシーマを、日産の有志チームが半年以上かけて完全にレストアして話題になった。

円高が急激に進み、輸出車が大幅な値上げ…打開策は?

輸出車でも高級車路線が進んだ。レクサスLS、インフィニティQ45アキュラTL―この3台の北米向け日本車の、日本名を答えられる方はどれくらいいるだろうか。プラザ合意によって円高が急激に進み、日本の工場で作った車を北米に輸出すると、現地では大幅な値上げとなってしまった。どうするのか。

答えは、高級ブランドを立ち上げ、高付加価値で勝負することだった。折しも89年、米ブッシュ新政権は日米構造問題協議をはじめ、日本の非関税障壁、商習慣や流通構造などで改善を求め、自動車メーカーは系列部品産業とのつながりを見直すよう求められた。

レクサスLSは、日本で89年に登場した初代トヨタ・セルシオである。89年は、レクサス・ブランドが立ち上げられた年であり、その目玉商品がLSだった。部品単位で精度を極限まで高め、圧倒的な静粛性を実現した。とある評論家は車内の静粛性を「お寺の境内のごとし」と喩えた。本場ドイツの高級車ブランドがこぞって購入し、ネジ1本まで分解して研究した、ゲームチェンジャーだった。レクサスは北米、イギリス、中東、そしてしばらくして中国で人気を博し、ブランドの立ち位置を確保した。

日産が89年に北米で立ち上げたのが、インフィニティである。Q45は輸出のためシーマの運転席・助手席前のパネルを漆塗りとするなど、木目パネルと本革シート、という従来の高級車の方程式から離れた独自性を打ち出した。エンジンはZ同様に300馬力仕様であり、北米向けにはGT-Rと同様のスポーツ四駆が搭載され、速さにもこだわった。

高級ブランドであるアキュラを一足早く86年に立ち上げたホンダは、インテグラレジェンド(RL)を売り、5年連続で顧客満足度1位を獲得した。そして95年にアキュラTLとして登場するのが、同年に国内で発売された2代目インスパイヤである。直列5気筒エンジンを前輪と運転席の中間に積む、フロント・ミッドシップだった。初代インスパイヤは国内で売れたが、2代目になるとバブル収束もあり、減退した。

インスパイヤは北米では成功し、車づくりが一層国際化したが、北米向けの車は本国の日本市場ではウケが悪かった。これはメーカーを問わず、北米ジレンマともいえる難題である。その後、たとえばホンダは北米市場を念頭に大きくなったシビックの代わりに一回り小さくて軽い初代フィット(2002年)を、スバルレガシィに次いでレヴォーグ(14年)を日本市場に投入している。

鈴木 均 合同会社未来モビリT研究 代表