現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売直後から注目を集めている。

巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。

(以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

西武ライオンズ編 辻発彦 後編〜
◆辻を一流に育て上げた広岡の金言

プロ二年目の1985年、近鉄との開幕戦のセカンドスタメンは、巨人から移籍の鈴木康友。第二戦三戦は行沢久隆がスタメン。第四戦でやっと辻発彦がスタメンに名を連ねた。

後楽園球場での日本ハム戦、先発は本格派の田中幸雄だ。

「ここはチャンスだ。何でもいいので結果を残さなければ」。セカンド三番手だった辻は、どんなことをしてでもこのチャンスをもぎ取る覚悟でいた。気合いを入れ直してベンチからグラウンドに飛び出した。

この試合で食らいつくように2本の内野安打を放ち、次の日もスタメンに名を連ねた。ライバル二人に負けないアピールポイントは足。自慢の足を生かしたプレーを念頭に置きつつ、毎日1本ヒットを打つつもりで試合に臨み、がむしゃらにプレーした。そうしてコツコツと結果を残していく。しかし、まだプロの球に合わないのか思ったように打撃が向上していかない。

きっかけは突然やってくる。
7月10日、大阪球場での南海戦の試合前のこと。

難波の繁華街ど真ん中にある大阪球場は“すり鉢球場”とも呼ばれ、両翼87メートル中堅115.8メートルとかなり狭い。おまけに内野スタンドの傾斜が三七度もあるため、打球音が銃撃音にも匹敵する程の反響があり、心理的にも投手は投げづらく打者有利の球場でもあった。

辻が試合前の打撃練習を終え、バッティングゲージを出たところで広岡に呼び止められた。

「バット短く持って打て」
「はあ」。あまりに唐突すぎて返事に困った。
「お前はインコースに強いから、バットを短く持ってベースにくっ付いて全部引っ張れ」
このとき辻は「そうですか」程度にしか感じていなかったが、このアドバイスが金言だと知ったのは試合後だった。

この日の試合で、辻は広岡の言う通りバットを短く持って打席のホームベース寄りに立った。すると、南海のエース山内孝徳から2本のツーベースを放った。監督の言う通りにしたら、打てた。2本のツーベースを打った感触がまだ残っている手を見ながら、心のモヤモヤが取り払われた気分になった。

すぐに結果を出した辻は、この日を境にバッティングにも自信が持てるようになり、打率も上がってきた。ホームベース寄りに立ったことが功を奏したのか、ランナーがいるときにはライト方向にもおっつけて打てるようになった。こうして先発で起用する機会がどんどん増えて、次の年からレギュラーとして全試合出場。初めてゴールデングラブ賞ベストナインを受賞する。

85年に広岡が辞任するまで2年間だけのつながりだったが、ここでの教えが辻を一流に育て上げた。

◆辻が学んだ広岡野球の大切なこと

人間長い人生の間、苦渋の決断をするときが一度や二度必ずあるものだ。

辻にとっての決断は、1995年のオフではなかろうか。

93年に3割1分9厘で首位打者を獲ったものの、翌年はシーズン後半に腰を痛めたせいで打率は三割を切った。そして九五年も腰痛のため試合数が激減し、ルーキーイヤー以来最低の成績。このシーズンは辻にとって屈辱的なシーンがあった。

4月22日の西武対日ハム戦、西武先発は郭泰源日ハム先発はエース西崎幸広。西崎は近鉄阿波野秀幸とともにトレンディーエースとして一世を風靡し、端正な顔立ちでプロ野球の女性ファン層の拡大に大きく貢献したピッチャーだ。辻は、西崎と相性が良かった。一対〇のまま四回の二打席目に入ろうとバッターボックスへ向かおうとしたそのとき、スタンドが何やらざわつき始めた。

「ん? どうした?」

辻が辺りを見回した。監督の東尾修がベンチから出てきて代打を告げたのだ。この交代に、辻は不服というより頭がこんがらがった。

「まだ試合は序盤だし、西崎との相性が良い俺を交代?」

解せなかった。37歳のベテランである自分を信じてもらえてないことに、憤りを感じた。バットを持って下がり、ベンチ裏の素振りができるミラールームに行くと、置いてあった椅子をガシャーンと思い切り蹴り上げた。怒りに任せてモノに当たったのは初めてだった。このシーンが起点となったのか、生まれて初めての行為により、辻のなかでせき止めていた思いが決壊し始めたのかもしれない。シーズン終了後、二軍コーチのオファーをされると同時に引退を勧告された。

「俺はまだできる」

辻は西武を自由契約となり、他球団との交渉にあたった。けじめとして前監督だった森祇晶に挨拶の電話をした。

「監督、晴れて自由契約になりました」
「そうなのか。お前、次はどこか決まっているのか?」
「いえ、まだ決まっておりません」
「ちょっと待ってろ」

森は、当時ヤクルトの監督だった野村克也に電話した。すると、ヤクルトがすぐに辻獲得の意思を表明した。その後、ロッテのGMに就任したばかりの広岡も辻の獲得に動き、電話を入れる。

「うちに来ないか、1億円用意する」
「ありがとうございます。ですが監督、すいません。すでにヤクルトさんから話をいただいてお世話になることを決めました」
「野村のとこか……、しょうがない。しっかりセ・リーグの野球を見てこい。頑張ってこい」

ありがたいと思った。プロ入り後の二年間しか世話になっていない広岡からも誘いが来たことに感激した。ただ辻は何の迷いもなくヤクルト入団を決意した。辻のなかでは、いくつもの分岐点があったら最初に声をかけてくれたほうに行くと決めている。ヤクルトの条件提示は年俸5千万、ロッテは1億。条件だけ見ればロッテのほうが圧倒的に上だ。だからといって辻は翻意しなかった。それが自分の流儀であり、けじめであると信じていたからだ。

「広岡さんは、自身のプレーを見せながら指導する。選手からしたら最も説得力のある指導です。広岡野球から学んだことは、局面局面で選手自ら考え実行する自主性を大事にすることです。現役時代、グリーンライトという自分の判断で盗塁していいというサインが出されていました。わざと走ると見せかけて走らなかったりと、状況を見ながら相手にプレッシャーをかけていましたね。別に誰から教わったわけではなく、周りの選手を見てこういうプレッシャーのかけ方があるんだと学び、自発的にやっていただけです。当時の西武には、常に相手にプレッシャ-をかけて試合を有利に展開するプレーを心掛けている選手が多かったように思います。だから常勝軍団が形成されていったのだと。

広岡さんの指揮官としての言葉の強さも印象に残っています。『俺の言う通りにやれば勝てる』と監督に証明されたら選手は何も言えません。広岡さんは確率重視というより、絶えず多角的な戦術を場面場面でシュミレーションし、試合の流れをよく読んだうえでサインを出す。勝負における哲学や心理を突く独自の理論をきちんと構築なさっていたと思います」

【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

―[92歳、広岡達朗の正体]―


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