尾野真千子ってほんと不思議な存在。作品全体を動かす運動体でもあるし、有機体でありながらちょっと可笑しな機械仕掛けになったりもする。いつ、どの作品、どの瞬間を見ても心底驚かされる人。

最近では、毎週水曜日深夜12時25分から放送されているドラマ『僕の手を売ります』FOD)で、より不思議で複雑な尾野がより新鮮だった。本作の冨永昌敬監督は、尾野真千子という存在のカスタマイズを試みたんじゃないか。

イケメン研究をライフワークとする“イケメンサーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が、冨永監督からの返答を頼りに、本作の尾野真千子を妄想解説する。

◆朝食に“野獣料理”をこしらえる姿に驚き

朝食作り。まな板ベーコン(?)を切って、ぱぱっと鍋に入れる。入れるというより放り込むに近い動作がやけに似合うのが、尾野真千子という人だ。放り込んでも、むしろ、食材の味わいが広がって美味しそう。

娘の丸子(當真あみ)が慌ただしく起きてくる。「角煮じゃん」といって器からひとつまみ。すると尾野扮する母・雅美が説明する。角煮は熊の肉で、鍋に入っているのは、イノシシイノブタの豚汁というわけ。あとは豆腐を入れて味噌を溶くだけ。

ええっ、イノシシだったのね。クジラベーコンに見えた気もするけれど……。娘の高校受験だと意気込んで、朝から“野獣料理”をこしらえる風変わりな食事作りがいかにもさらっと演じられる。実は受験が明日だったことに気づいてもあっけらかん。

そそくさと仕事に出ようとすると、「手洗ってよ」と丸子に注意される。やや間を置いて、「そうだったね」といって台所に戻ってくる空気感。尾野が台所にいるだけでもうすでにただならない雰囲気だというのに、この野獣料理の食材による快い錯覚まである冒頭場面が、ほんと不思議。

◆肉を媒介にした奇怪な人間関係が展開

それにしても、あのベーコンらしき、柔らかな色合いの猪肉の即物的な魅力とは。そうだな、例えるならば、長谷川和彦監督作『青春の殺人者』1976年)で、市原悦子が血潮にドボンと転がすキャベツの強烈な一打みたいな。

水谷豊主演の文字通り、青春映画であるはずの同作に、父親殺しの烙印を押すリアリティが、あの即物的なキャベツだったことを映画史は物語っている。長谷川監督渾身のキャベツくらいの熱量を尾野真千子が切る猪肉にもぼくは勝手に感じた。

別の肉の塊も登場する。これは雅美の夫・大桑北郎(オダギリジョー)がバイト先で貰ったもの。「心配するな、鳥ではない」と説明されるその肉は、ラップでぐるぐるまきにされた、結構硬そうな謎の物体で、人から人へ手渡される。手から手へ、紙幣を媒介にするロベール・ブレッソン監督の『ラルジャン1983年)を不意に思い出させる、肉を媒介にした奇怪な人間関係がサイドストーリー的に描かれる。

尾野真千子という“運動体”について考える

この不思議と心地いい物語を書き、演出を担当した冨永昌敬監督は、ひとりの俳優と唯一無二の物体との然るべき距離と関係性に何を見ているのか。第3話ラスト、朝の食卓で高笑いしながら、漬物をパリパリする小野を見て、思った。

「あ、彼女はコメカミの俳優である」と。ボリボリは鳴らない。しっかり噛んでいるのに、パリパリと軽妙な響き。その分、コメカミが。冨永監督は、尾野真千子という運動体の得体のしれない有機体感を捉えているんじゃないか。

人間の手から手へ投げ出されるように揺れ動く肉の塊も第4話でオダギリが薄ら笑いを浮かべて発進させるブルドーザーも、運動っぽいものはすべて、尾野真千子からニョキッと伸びた手足みたいな働きをする。

ブルドーザーの所有者である土木会社専務の煙草に火を点けるライターもそうだけど、細かな運動がひとつひとつコレクションされて、運動体としての尾野の部品として適宜カスタマイズされてくみたいな。漬物パリパリのとき、ちょっと可笑しな機械仕掛けになっていたのは、まだカスタマイズが完了していない不完全の状態だったからか。

濡れ場でもコメカミが気になる…

あれ、冨永監督の他作品、『素敵なダイナマイトスキャンダル』(2018年)での小野はどうだったか。末井昭の自伝を原作とする本作では、人妻が他の男性とダイナマイトで吹っ飛ぶ“ダイナマイト心中”を完遂する役柄を演じた。この衝撃的な実話を生きる上で、着物とつっかけで市場を歩く冒頭場面の尾野のスキャンダラスな色っぽさったらない。

色気の出どころを探るべく、触手を伸ばして画面を見つめると、発散場所はやっぱりコメカミなんじゃないかと感じるのはぼくだけかな。子どもたちを追い出し、家に上がり込んできた男に抱かれる瞬間では、コメカミ中心の濡れ場(?)が成立している気がしてならない。

ええい、こうなったら、監督に直接聞くのが早い。実は冨永監督は、ぼくが通った日本大学芸術学部映画学科監督コースの講師。昔のよしみでということで、勝手に妄想した場面の細部について、Xのメッセージで質問を送った。

◆「珍しい肉」と「珍しい漬物」の正体は…

どんな返答だったか。まず、例の猪肉については、「食材は豚肉ではなく『珍しい肉』でしたが、とはいえ豚汁は豚汁であり角煮は角煮なので、尾野さんも私も、特に何も考えていなかったと思います」とのことだ。

やっぱり監督の意図とは違う勝手な妄想だった……。そりゃそうなのだ。現場でそんな変なことをいちいち考えてたら、撮影がとまってしまう。でもここで懲りずに続けるならば、「豚汁は豚汁であり角煮は角煮」という丁寧な記述は、物体(食べ物)の即物的な魅力の演出につながると思うんだよなぁ。もうひとつの即物的物体である漬物はどうだったか。

「この漬物も『珍しい漬物』として主人公がミヤゲに持って帰りましたが」と前置きがありつつ、猪肉と同様だった。『GOOD NEIGHBORS』(J-WAVE)に冨永監督がゲスト出演したときには、オダギリさんから「一言で言うと、不思議な人ですね。(中略)頭の中を見てみたい、僕にとってはそういうタイプの人」 とコメントがあったけれど、ほんとうにそう。

石原さとみ出演のサントリービール「NO.1」篇でディレクター役の男性俳優が冨永監督にあまりにも似ていたものだから、あのときも思わず「先生ですか!?」とメッセージを送ると、ほんとにそうで驚いた。なんだろうか、定期的にインパクト大で登場する冨永監督って……。尾野真千子に続いて今度は監督の存在論的な問いが急浮上?

◆AI化した尾野真千子が登場するかも?

フランスの批評家ロラン・バルトがいうように、映画でもドラマでも作品は常に見る側に広く開かれている。観客や視聴者、批評家の考察、解説、それから妄想は多様であって然るべきだけれど、冨永監督の作品は作り手の意図したことの先で、あとは野となれ山となれ的な豊かな楽しみ方がある。

だからこそ、大学時代から強く惹きつけられてきた。つい最近だと、池松壮亮(監督コース出身の先輩)主演のジャズ映画『白鍵と黒鍵の間に』(2023年)がドンズバ。音楽プロデューサーの松尾潔さんが日刊ゲンダイの連載「松尾潔のメロウな木曜日」で取り上げているのを読んで、劇場に駆けつけると、これがたまらない運動体映画だった。

1986年、ある夜の銀座。冒頭数カット、実景がつながれただけでもうため息。池松扮するピアニストが、クラシックからジャズに転向するきっかけとなる先生が、軽く鍵盤に両手を添えてざれ弾くとき、くわえている煙草の灰がぱらぱら。クラシックの世界じゃ絶対にあり得ない鍵盤上のジャズ的現実に目が釘付け

煙草の灰のパラパラ運動体の佐野さんを豊かな細部として、ここでも運動っぽいものが最終的に回収され、一人二役的に振る舞う池松壮亮の完全体が現れる。これはやっぱり尾野真千子と同様、俳優が有機的にカスタマイズされる冨永監督作の一例。きっと次は、AI化した尾野真千子が登場したりして(と、妄想はさらに膨らむ)。

<TEXT/加賀谷健>

【加賀谷健】
コラムニスト・音楽企画プロデューサー。クラシック音楽を専門とするプロダクションでR&B部門を立ち上げ、企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆。最近では解説番組出演の他、ドラマの脚本を書いている。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu

『僕の手を売ります』Xより