ロールス・ロイスを創設した20世紀の巨人の人生。破産・倒産・失業を乗り越えたヘンリー・ロイスの波乱万丈のストーリーとは

ロールス・ロイスの創業物語

ロールス・ロイスのブランド創設にかかわった主要人物を紹介するシリーズの第2弾となる今回は、ヘンリー・ロイスを取り上げます。彼は161年前の1863年にイギリスピーターバラ近郊のアルウォルトンで誕生しました。貧しい出自で、正規の教育もほとんど受けなかった彼が、20世紀の工学と革新の巨人となるまでには、どのように過ごしてきたのでしょうか。その人生を回顧していきます。

苦難の少年時代

フレデリックヘンリー・ロイスは1863年3月27日に5人兄弟の末っ子として生れた。父親は破産宣告を受け、当時の法律のもと投獄の身だったという。この幼い頃の貧困と苦難は、ロイスの性格と健康に一生を左右することなる。

わずか10歳で働き始めたロイスは、最初は新聞売り、後に電報配達の少年になる。1877年、叔母からの資金援助を得て、グレートノーザン鉄道(GNR)の工房で念願の見習い職を得ることができた。彼のデザインに対する天賦の才能と手先の器用さは、すぐに明らかになり、彼が真鍮で作った3台のミニチュア手押し車のセットは、後の彼自身や他の人たちの製造品質の基準となるくらい緻密に製造されたものだった。

2年後、叔母の金銭トラブルにより彼の年季奉公料を支払うことができなくなるが、それでもめげずにロンドンに戻ったロイスは、1881年、設立間もないエレクトリックライティング&パワージェネレーティングカンパニーEL&PG)で働き始めた。当時、電気は非常に新しいものであったため、専門の教育機関もなく、正式な試験も資格もなかった。初歩的な学校教育しか受けていなかったロイスにとっては願ってもいない幸運だったといえよう。

ロイスはこの分野への憧憬、恐るべき勤労意欲、自己研鑽への熱心さ(仕事の後、英語と数学の夜間クラスに出席)により、1882年、EL&PG(現在はマキシム・ウェストン・エレクトリック・カンパニーと改称)から、リバプールの街灯と劇場照明の設置管理のために派遣される。しかし会社が突然倒産すると、まだ19歳だったロイスは再び失業してしまう。

ところが1884年末、彼はマンチェスターに自身のF・H・ロイス社を設立。当初は電池式ドアベルなどの小物を製造していたが、その後会社は拡大しオーバーヘッドクレーン、鉄道操車用のロープの巻取り装置、その他の重工業用機器の製造へと発展する。

1901年になると、長年の過労と緊張した家庭生活により、彼の健康は深刻な打撃を受けることとなる。翌年には、輸入された安価な電気機械に押され、会社の財政が悪化。完璧主義者であったロイスは、製品の品質に妥協することはなかったが、その結果、1902年に彼の健康は完全に崩壊してしまった。

ロールス・ロイスのブランド創設に関わったヘンリー・ロイスを紹介

自動車への傾倒

ロイスは医師から完全な休養を勧められ、妻の家族と南アフリカで10週間の休暇を過ごすよう説得される。長旅の途中、彼は出版されたばかりの本『自動車–その製造と管理』を読むことになるが、そこで学んだことが彼の人生、ひいては世界を変えることになったのだ。

イギリスに戻ったロイスはすっかり元気を取り戻し、最初の自動車であるフランス製10馬力のデコヴィルを手に入れた。一般のロイスの物語では、この最初のクルマがあまりに粗悪で信頼性が低かったため、ロイスはこの車をもっと良いものに改良できると確信したと言われているが、実際には、休暇中に読んだ本を元に、ロイスはすでに自分自身でクルマを作ろうと考えていた。

彼がデコヴィルを選んだのは、まさにそれが手に入る最高のクルマのひとつだったからである。それは、彼の最も有名なフレーズを実現するためだった。

「今ある最高のものを基に、それをさらに良くしなさい」

ロイスはまず、デコヴィルレイアウトをベースにした2気筒10馬力車を3台製作。これらの基礎となるマシンは、彼の分析的アプローチ、細部へのこだわり、設計と製造における卓越性の追求という、人生の特徴そのものを示した。

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1863年に5人兄弟の末っ子として生まれたヘンリー・ロイス