今年で45歳になった岩村明憲は、野球への変わらぬ愛情を胸に福島の地で戦い続けている
今年で45歳になった岩村明憲は、野球への変わらぬ愛情を胸に福島の地で戦い続けている

【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第3章 福島レッドホープス監督・岩村明憲

【写真】楽天時代の岩村のサヨナラタイムリー

かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は独立リーグで奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第3章はNPBMLBで活躍し、WBC日本代表としても活躍した現・福島レッドホープス監督、岩村明憲。輝かしい実績を持つスター選手だった岩村は、なぜ今福島で独立リーグ球団の監督をしているのか。その知られざる奮闘ぶりに迫った。(全4回の第4回/前回はコチラ

■上甲イズムと「夢叶うまで挑戦」

福島レッドホープスの楢葉キャンプ――。

チームOBの畠山氏から伺ったように、練習は気迫溢れた密度の濃い内容で、岩村の指導からも「ひとつのミスも許さず、ひとつのプレーもおろそかにしない。そのために何事も全力を尽くす」という緊張感が伝わってきた。厳しくも温かい眼差しで見守る岩村の姿を見ていると、高校野球界の名将が思い浮かんだ。

宇和島東を11回、済美を6回、甲子園出場に導いた上甲正典監督。今は亡き上甲監督は、岩村にとっては生涯忘れることのできない「野球人としての原点」とも言える恩師だ。

2014年11月、岩村がメジャー再挑戦でも日本のNPBでもなく、独立リーグ、しかも福島で誕生したばかりの球団で挑戦しようと思ったきっかけは、亡くなる直前に上甲監督から「野球界のパイオニアになれ」と言われたことも大きく影響していた。

「夢叶うまで挑戦」が座右の銘の上甲監督は1977年愛媛県宇和島市の田舎町にある宇和島東高校の監督に就任した。上甲監督の就任当時、愛媛の高校野球は松山商業一強の時代だった。そんな歴史の壁を破り、87年に夏の甲子園初出場。翌88年は春の選抜に初出場初優勝という偉業を達成した。当時、宇和島東の破壊力ある攻撃は「牛鬼打線」の異名で恐れられた(牛鬼は宇和島に伝わる鬼の頭に牛の胴体を持つ妖怪)。

上甲監督は93年から4年連続で、岩村を含む5人の選手を宇和島東からNPBに輩出。済美でも4人のNPB選手を輩出した。そんな教え子たちの中でも岩村は、ヤクルトで日本一に貢献しWBCにも2度出場、メジャーリーグでもワールドシリーズに出場し、日本球界を代表するスター選手に上り詰めた上甲監督の「最高傑作」、いわば出世頭だった。

福島に来て3年目の2017年4月、岩村はシーズン終了をもって選手としては現役引退することを発表した会見の席上、「上甲監督がいなければプロ野球選手にもなれていないと思います」と話した。

「高校時代の上甲正典監督から教えていただいた『打ったら走る』という、野球の基本中の基本をやり通せたというのはあります。今シーズンもまだまだ、打席に立って凡打しても、一塁への全力疾走は欠かさないようにしたいと思います」とも語り、引退試合までそれをまっとうした。そしてそれは今も岩村が、監督として福島レッドホープスの選手に伝えていることにも思える。

「もちろん昔のような形での厳しい指導は、認められない部分はあると思います。上甲監督のやり方をそのまま今に当てはめることはできないかもしれません。ただ、苦しい場面で歯を食いしばって乗り切る魂は、中西(太)さんから授かった言葉で自分の信条でもある『何苦楚(なにくそ)魂』にもつながる教えです。そうした教えを若い世代に継承していくことも、自分の使命のひとつだと思っています」

2014年9月2日、67歳で生涯を閉じた上甲監督は、亡くなる直前までグラウンドに立ち続け、最後まで現役監督であり続けた。称賛だけでなく、厳しい練習や選手起用などをめぐり批判されることもあったが、人生をかけて誰よりも野球を愛し続けたことは間違いない。

福島に来て今年で10年目。選手たちは自分の子供のようにかわいいと岩村は言う
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■気持ちで打った逆転サヨナラ2ベース

楽天時代(2011~12年)は自身でも満足できるような結果は残せず、ファンからきつい野次を浴びることもあったと岩村は話した。しかし「何苦楚魂」でファームから這い上がり、劇的な一打でファンを感動させた試合を筆者はよく覚えている。11年6月29日、対ソフトバンク戦でのことだ。

同シーズン、岩村はメジャーから日本球界に復帰し、大きな期待を背負って楽天入りした。直後に起きた東日本大震災、そして福島第一原発事故。野球を通じて被災地に勇気を届けたい。他選手と同様に大きな使命感を持ってシーズンインしたものの調子は上がらず、5月中旬にメジャー帰りの男は屈辱の二軍落ち。しかし、上記の試合前日に再昇格すると即先発出場した。

まずは守備で魅せた。8回表、3対3。1アウト一塁の場面で、三塁を守る岩村は、カブレラの痛烈なゴロを横っ飛びで捕球すると、膝をついた体制でセカンドに送球しフォースアウト。一塁も間に合いダブルプレー。「これぞメジャーリーガー」と言わんばかりの華麗かつ力強い守備でピンチを凌いだ。

最大の見せ場は、3対4と勝ち越されて迎えた延長10回裏だった。

2アウト一、三塁の場面で岩村に打席が回ってきた。マウンドにはソフトバンクの守護神、馬原。岩村は馬原の投じた3球目、154キロのストレートを逆方向に打ち返した。高く舞い上がり、一瞬、フライでアウトかと思われた。しかし打球は、岩村そして楽天ファンの思いを乗せたように伸びてレフトオーバー。フェンスに当たり逆転サヨナラ2ベースヒットになった。

岩村は勝利を確信した瞬間両手を叩き、セカンドベースをまわったあたりで腕を上げてファンと喜びを共有した。

2011年6月29日のソフトバンク戦で、逆転サヨナラ2ベースを打ち、飛び上がって喜ぶ岩村(写真/産経ビジュアル)
2011年6月29日のソフトバンク戦で、逆転サヨナラ2ベースを打ち、飛び上がって喜ぶ岩村(写真/産経ビジュアル)

13年前のあの場面について、岩村に聞いた。

「銀次や枡田、平石、ピッチャーの青山とか、後輩たちが自分のことのように喜んでくれたことがすごく嬉しかった。僕もほっとした部分はありました。ようやくひとつ、とりあえず仕事ができたと。気持ちで打てた部分もありますが、リハビリも含めて、コーチと相談しながらファームでも腐らず練習を続けていました。

それを野球の神様が見ていて、あの場面で打順を回して打たせてくれたのかなと思いました。あのとき、ベンチからみんなが出てきてハイタッチや抱きついて祝福してくれたあの笑顔は、今でも忘れられないですね」

試合後のヒーローインタビューでは、「岩村選手、待っていましたよ!」の問いかけに少し間を置いて、やや俯きながら「すみません」とヒーローらしからぬ小さな声で照れくさそうに答えた。それでも鳴り止まぬ岩村コールで祝福されると、「歯痒い日が続いていましたけど、今日のこの日を信じてやってきました。ファンの人たちが応援し続けてくれたことに本当に感謝しています」と答え、ようやく笑顔をみせた。

■「何苦楚魂」を心に宿して

劇的な一打で復活をアピールした岩村。しかしその後調子は上向かず、スタメンに定着することはなかった。そして翌2012年シーズン限りで楽天を離れ、東北の地に別れを告げた。

レイズ時代、二塁の守備に着いていた際、危険なスライディングの直撃を受け左膝に大怪我を負って以降、岩村は本来の打撃、繊細な感覚を取り戻すことができないまま現役引退した。もしあの大怪我がなければ、アメリカ、そして日本でいったいどれほどの記録を残し、ファンを感動させる場面を生み出しただろうか。

「内側と前十字と足首の三角靭帯3本同時だったので、軸足に身体が乗れないというか......」と岩村は振り返る。それでもここ一番という場面や、「自分のために」というよりも「誰かのために」という場面では、時に神がかったような全盛期を思い出させる一打を見せた。

そんな岩村の勝負強さは、高校時代に上甲監督の下で決して科学的、効率的とはいえない猛練習を乗り越え、逞しい精神力を養ったことで培われた部分もあったかもしれない。そして監督になった今、岩村は「夢叶うまで挑戦」という上甲イズムを伝承し、「何苦楚魂」でさまざまな困難を乗り越えながら新たな野球人生を戦い続けている。

今シーズンの目標と、これからの夢について聞いた。

「監督としてはもちろん優勝、日本一になりたい、という目標があります。久しぶりに監督として胴上げされたいなと。運営している立場としては、まずはなんとか今年も無事に終えられるといいなという思いが最初にあります。

選手たちも、決して高いとはいえない給料で頑張ってくれている中で、未払いや遅れることはできない。これまでもそこは必死に守ってきました。とにかく、一年一年繋げていくことで新たな目標、夢も見えてくる。そう信じています」

35歳で福島に来た岩村は、今年2月で45歳になった。

当初は誰かが引き継いでくれるまでと思い、本来は背負わなくてもいいはずの重荷を自ら背負った挑戦。気づけば福島に来て、今年で10年目を迎えた。

「スポーツの力で復興に貢献したい」と言葉で言うだけなら簡単だ。しかし、復興に取り組む地元の人たちに対する関心も全国的には年々風化する中、現地に暮らして活動を続けることは、相当な覚悟や情熱がなければできない。それを岩村は9年間もやり続けてきたのだ。

最後に、「福島に来た10年前と今とで、変わらないものは何か?」と聞いた。

岩村は開口一番、「野球に対する愛情」と答えた。

「野球と出会い、そしてここにたどり着くまでには、いろいろな苦労がありました。でも苦労の先に感じられる野球の楽しさ、面白さがある。まさに今取り組んでいることは野球選手冥利に尽きるというか。そういった経験を伝えていく役目が自分にもあると感じています。

今は技術の指導だけではなく、野球を通じて地方創生に繋がることを考えて取り組んでいきたい。もちろん、どこまで続けられるかどうかはわかりません。資金が尽きてしまえばできない話ですから、ホント、一年ごとの勝負です。でもとりあえず今年は、このままいけばリーグ戦の開幕(4月6日/対栃木)から閉幕までは、おそらく大丈夫。シーズン途中で投げ出すわけにはいかないじゃないですか、こればっかりはね」

岩村は笑顔で話した。

部屋を出る岩村の背中をふと見た。真っ赤なチームジャンパーの首筋付近には、「ALL for FUKUSHIMA!」という文字が描かれてあった。

岩村明憲(いわむら あきのり)
1979年2月9日生まれ、愛媛県出身。宇和島東高校から96年ドラフト2位でヤクルト入団。ベストナイン2度、ゴールデン・グラブ賞6度受賞。2007年にデビルレイズ(現レイズ)に移籍。パイレーツ、アスレチックスでもプレーし、11年から楽天、13年からヤクルト、15年からBCリーグ・福島で選手兼任監督。17年に現役引退して以降も、監督兼球団代表として福島で奮闘の日々を送っている

取材・文・撮影/会津泰成

今年45歳になった岩村明憲は、野球への変わらぬ愛情を胸に福島の地で戦い続けている