文=松原孝臣 撮影=積紫乃

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1つ1つ乗り越えて進んできた1年

 言葉が弾んだ。

「自分としては、今までやった成果が出てきたシーズンだったかなと思います」

 青木祐奈は穏やかな、柔らかな笑顔で語る。強化選手に復帰した2023-2024シーズン、初めてのグランプリシリーズ出場となるNHK杯で5位。2月下旬のチャレンジカップオランダ)は、自身初の200点越えとなる209・37点で坂本花織に次ぐ2位で終えた。

 シーズンを振り返る中に、次の言葉があった。

「1つ1つ乗り越えて進んできた1年だったと思います」

 乗り越えて――それは今シーズンに限らない。青木祐奈の歩みそのものを示していた。

 

「辛かった時期はほんとうに長かったです」

 スケート人生を振り返り、青木は言う。

 そのスタートは5歳の頃。2006年トリノオリンピック金メダルを獲得した荒川静香に憧れてスケートを始めた。

 ほどなくして将来を嘱望されるスケーターとして注目を集めた。2011年と2012年に全日本ノービス選手権(ノービスB)に出場した青木は、20132014シーズンの全日本ノービス選手権(ノービスA)で2位になり初の国際大会プランタン杯で優勝。中学校に進学した20142015シーズンには全日本ノービス選手権(ノービスA)で優勝し全日本ジュニア選手権でも5位と健闘、国際大会でも優勝を重ねた。

 好成績もさることながら、青木が注目されたのはジャンプにもあった。それはトリプルルッツ-トリプルループだった。ジュニアに上がった20152016シーズン、初めて出場したジュニアグランプリシリーズのリガ大会で史上4人目の成功者となっている。成績とあわせて、スポーツ番組で特集されるなどスポットがあてられた。

 

これをやらなかったら価値がない

 だがジュニアに上がるとともに暗雲も立ち込めた。腰椎分離症の発症だった。リガ大会ではすでに症状は出ていた。

「分離症になって最初に1年、その後またもう1年ありました。滑っていても痛いし、生活でも前後に動いたりする動作も痛かったです。ジャンプも痛いですし、スピンとかは反る動きが多いので負担でした」

 思うような練習ができない日々に葛藤も生まれた。

「ジャンプが好きなのでジャンプをやることが楽しみでしたし、踊ることも好きなんですけど、でも怪我だと十分にはできないのでもどかしさがありました。周りの選手たちが跳んでいるのを見るとやりたくなってしまうというか、自分をコントロールするのもけっこう大変でした」

 ジャンプの難度を下げた構成をする選択もあった。それでもトリプルルッツ-トリプルループをプログラムから外さなかった。

「先生方、先生方というより両親からやめておいたら、と言われていたときもあります。でもレベルを下げようとは思わなかったです。自分としては『これをやらなかったら価値がない』じゃないですけど、勝てないと思っていたので、外すことは考えていませんでした」

 ただ、練習が望むようにできないから成績は上がらない。

「ほんとうにスケートをやめたいなって何回も思って、両親にもたくさん相談したりしていました」

 怪我に苦しむ中、下の世代から伸びてくる選手たちもいた。

「個人競技なので自分のやるべきことをやるのがいちばんですし、周りの結果はあんまり気にしてなかったんですけど、でも周りがどんどん強くなったり、自分が怪我して結果が出ないときにみんなが結果を出している状況は苦しかったし、自分に向いていないのかなと感じることもありました」

前を向くきっかけになった怪我

 葛藤が続く中で、高校2年生で出場した国際大会「ババリアンオープン」では2位となり光明が見えたかと思えた。だがその翌シーズンである2019-2020シーズンの夏、左足首骨折の怪我に見舞われる。

 その怪我は逆に前を向くきっかけになったという。

「手術することになり、今シーズンは試合に出場できないと分かったとき、もう今まで休めなかった分、思いっきり休もうと思いました。入院しているときに、来シーズンは一から頑張ろうと意外に前向きになっていて。怪我をしたからこそ振り切ったところがありました」

 同シーズンを全休し、日本大学に入学した2020-2021シーズン、10月の東京都選手権で復帰し8位。11月の東日本選手権ではショートプログラム15位からフリー4位、総合8位となって全日本選手権出場を果たした。

 だが、大学2年生となった2021-2022シーズン、「いちばんのどん底」と表現する苦しい出来事に直面する。全日本選手権のショートプログラムで30位の最下位に終わったのだ。フリーに進むことができなかったのは全日本選手権で初めてのことだった。

 ショートプログラムはシーズンを通して安定していて、しかも調子が悪いわけでもなかったからなおさらショックは大きかった。時間をかけて考えた末、青木は1つの決断をする。長年スケートに打ち込んだクラブからの移籍だった。

プレッシャーに負けてしまったというのが原因だと思うんですけど、変化のない生活に甘えているかな、それこそ自分には変化が必要だ、先生に甘えているところもたくさんあると思ったので、全日本が終わってから1カ月休んで、そこで判断しました」

 指導を受けていた都築章一郎コーチに話をした。

「先生も全日本が終わった段階で覚悟していたみたいで、私の成長のためにと送り出してくださいました」

 考え抜いて決めたこととはいえ、6歳から指導を受けてきた、長い時間を積み重ねてきたコーチのもとを離れることになる。

「先生との思い出がありすぎて、先生にいい景色を見せてあげたかったです。先生の前では冷静でいたんですけど、車に戻ったら泣いちゃって」

 涙がそのときだけのものでないのは、振り返りながら語るその目が物語っていた。

 成長することが恩返しになる。強い覚悟とともに移ったのは2021年に開校したMFアカデミーだった。

 中庭健介コーチの指導は新鮮だった。

「ほんとうに具体的というか、ジャンプでもスケーティングでもそれこそ今まで欲しかったアドバイスをくださって」

 さらにこう語る。

「上手い選手たちも集まっているのでふだんから刺激になりますし、自分も負けていられないなという気持ちにさせてくれる環境です」

これが最後かもしれない

 移籍した初年度の昨シーズン、全日本選手権で初めての一桁順位である7位になると今シーズンは2019-2020シーズン以来となる強化選手に復帰。

「これが最後かもしれないという気持ちで臨みました」

 スケートでは大学卒業を1つの区切りにする選手も少なくない。青木も大学4年生になっていた。

 ショートプログラム『Young and Beautiful』は自ら振り付けた。

「振り付けはもともと興味があって。踊ることが好きで、小さい頃から音楽がかかったら踊るという練習を日常的にしていたので、小さい頃からやってきたものを自分のプログラムとして表現したいと思いました。最後のシーズンだと考えていたので、先生からも許可を得てやりました」

 フリーは『She』。振り付けはこれまで何度もお願いしてきたミーシャ・ジー。

「最初に曲をいただいてどういうテーマでやろうかという話になったとき、ミーシャから『このSheは母親であったり、誰か思う人であったり、そういう人物を作ってストーリーを立てたらいいんじゃないか』と聞いて、最後のシーズンかもしれないと思っていたので、自分のスケート人生をこの曲で表現したいと伝えたら賛成してくださいました」

 ストーリーをこう説明する。

「序盤ではスケートに出会ったところから本当に楽しくて夢あふれているような私を表現していて、中盤、曲調が変化したところで怪我をしたり葛藤もあってたくさん悩んだ時期を。コレオに入る前から少しずつ負った傷をはねのけて、またさらに羽ばたいていける自分を表現しています。ほんとうに私はスケートが好きなんだなっていう気持ちを全面に出したプログラムです」

 情感の立ち込めた演技は、どの試合でも、観る者に強い印象を残した。フィニッシュ後の笑顔もまた、輝きを放ち続けた。

「どの試合でも、私のスケート人生を表現したプログラムを見てくれてありがとう、という気持ちでフィニッシュしていました」

 まさにスケート人生を表現した、葛藤などを抱えつつも「スケートが好き」という思いを取り戻した、達することができたストーリーから生み出される表現であった。

 あらためて、数々の困難と向き合いつつ、それでもスケートを続けられた原動力を尋ねる。

「いちばん大きいのは支えてくださった方々に恩返ししたい、家族にほんとうにここまで苦労をかけているのにやめたら……という気持ちがありました。それに、やっぱりスケートをすることで自分を表現することが好きで、その気持ちを定期的に確認していました。ノービスで優勝したときにアイスショーにも出させていただいて、楽しかった記憶でいっぱいなので、アイスショーにも一回出たいという気持ちも大きかったです」

 出たいと思っていたアイスショー出演がかなったのは今年2月のこと。高橋大輔がプロデュースした「滑走屋」だ

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