父が亡くなり、兄が事業を引き継ぐことになったため、妹である相談者は、兄に言われるまま「相続分のないことの証明書」を作成しました。ところが、兄は承継した事業に失敗し、父が残した負債について債権者から私のところまで請求がきました。本稿では、弁護士・相川泰男氏らによる著書『相続トラブルにみる 遺産分割後にもめないポイント-予防・回避・対応の実務-』(新日本法規出版株式会社)より一部を抜粋し、「相続分のないことの証明書と相続放棄」について解説します。

相続分のないことの証明書と相続放棄

父が亡くなり、兄が事業を引き継ぐことになったので、妹の私は、兄に言われるまま「相続分のないことの証明書」を作成しました。ところが、兄は承継した事業に失敗し、父が残した負債について債権者から私のところまで請求がきました。

紛争の予防・回避と解決の道筋

◆相続分のないことの証明書は登記原因証書として認められており、この証明書に基づき被相続人から不動産を取得する相続人への所有権移転登記が行われており、作成に手間がかかる遺産分割協議書の代わりに、相続分のないことの証明書が便宜的に作られることがある

◆相続分のないことの証明書が便宜的に作成された場合の法的効果としては、相続分の譲渡または相続分の放棄と解される可能性があるが、いずれにせよ、相続債権者の同意がない限り、相続人は相続債務を承継する

◆相続放棄の熟慮期間は、原則として、相続人が相続開始の原因たる事実およびこれにより自己が法律上相続人となった事実を知った時から起算される。例外的に、当該熟慮期間は相続人が自己が相続すべき財産の全部または一部の存在を認識した時または通常これを認識し得べき時から起算されることがある

チェックポイント

1. 「相続分のないことの証明書」を作成した共同相続人の超過特別受益者性の有無および証明書が作成された事情を確認する

2. 「相続分のないことの証明書」の法的効果を検討する

3. 「相続分のないことの証明書」を作成した共同相続人について、相続放棄の申述を検討する

解説

1.「相続分のないことの証明書」を作成した共同相続人の超過特別受益者性の有無および証明書が作成された事情を確認する

(1) 相続分のないことの証明書の意義

被相続人から遺贈または贈与(以下「遺贈等」といいます。)を受けた相続人がいる場合、遺贈等の価格が当該相続人の相続分に等しいか、これを超えるときには、超過分を返還する必要はありませんが、当該相続人は、既に相続分を受領しているものとして、相続分を有しません(民903②)(以下、遺贈等を受けた結果、相続分を有しない相続人を「超過特別受益者」といいます。)。

このとき、超過特別受益者が自らの相続分がないことを証明するために作成する証明書を「相続分のないことの証明書」といいます(他に、特別受益証明書、相続分不存在証明書と呼ばれることもあります。)。

相続分のないことの証明書は登記原因証書として認められており、この証明書に基づき被相続人から不動産を取得する相続人への所有権移転登記が行われています。

こうした登記実務を踏まえて、超過特別受益者でない者が、作成に手間がかかる遺産分割協議書を作る代わりに、相続分のないことの証明書を便宜的に作ることがあります。

(2) あてはめ

本事例では、妹の私は、兄に言われるまま、相続分のないことの証明書を提出しており、妹への遺贈等がなされているか不分明です。

そのため、妹が超過特別受益者に当たるかどうかもわかりません。もし妹が超過特別受益者でないのでしたら、兄が被相続人である父から自身への不動産所有権移転登記をするために、便宜的に作成を依頼したものと推測されます。

負債の支払い義務を免れることはできるのか

2.「相続分のないことの証明書」の法的効果を検討する

(1) 相続分のないことの証明書の効果

超過特別受益者でない者が作成した相続分のないことの証明書の法的効果については、多くの裁判例があり、争いがあるところです。法的効果の詳細は、〔4〕をご参照ください。

本事例で妹が作成した相続分のないことの証明書が、兄が不動産の所有権移転登記をするための便宜的なものでしたら、妹が自らを超過特別受益者であると認めたことにはなりません。

妹が亡父の遺産を取得したか否かについて明らかにされていませんが、もし妹が何も遺産を取得していないのでしたら、相続分の譲渡か、相続分の放棄に当たる可能性が高くなります。そこで、以下では、①相続分の譲渡、②相続分の放棄の二つのケースについて検討します。

(2) 相続分の譲渡と相続債務の帰属

相続分の譲渡とは、積極財産と消極財産とを包括した遺産全体に対する譲渡人の割合的な持分を譲受人に移転することをいいます。共同相続人間で相続分の譲渡がなされた場合には、譲受人は従前から有していた相続分と新たに取得した相続分とを合計した相続分を有することになります(最判平13・7・10民集55・5・955)。

被相続人の金銭債務その他の可分債務は、法律上当然分割され、各共同相続人がその相続分に応じて承継します(最判昭34・6・19民集13・6・757)。

判例によると、相続分の譲渡は、消極財産を含む遺産全体に対する譲渡人の割合的な持分が移転しますので、相続債権者との関係においては免責的債務引受と考えられ、相続債権者の同意によりその効力が発生します(潮見佳男『詳解相続法第2版』277頁(弘文堂、2022))。

(3) 相続分の放棄と相続債務の帰属

相続分の放棄とは、積極財産の取得を希望しない共同相続人が自身の相続分を放棄することをいいます(片岡武・管野眞一編『家庭裁判所における遺産分割・遺留分の実務〔第4版〕』129頁(日本加除出版、2021)。以下「遺産分割の実務」といいます。)。

相続分の放棄は、相続放棄とは異なり、期間制限はなく、遺産分割までの間はいつでもすることができます。

相続分の放棄の法的性質に関する学説はいくつかありますが、いずれの説を採用しても、放棄者は、相続人としての地位を失うことはないので、相続債務を負担する一方、遺産分割において積極財産を取得することができなくなるので、遺産分割協議に参加できません(潮見佳男編『新注釈民法(19)』366頁〔副田隆重〕(有斐閣、2019))。

(4) あてはめ

相続分の譲渡・相続分の放棄、いずれであっても、譲渡人・放棄者は、相続債権者からの免責を受けない限り、相続債務を承継します。

本事例の場合、相続分のないことの証明書を作成した妹が、相続分の譲渡・相続分の放棄、いずれをしていたと認められても、相続放棄が認められない限り、亡き父が残した負債の支払義務を免れることはできません。

相続放棄の「熟慮期間」とは

3.「相続分のないことの証明書」を作成した共同相続人について、相続放棄の申述を検討する

(1) 相続放棄とは

相続放棄とは、相続人が相続開始による承継の効果を拒否する意思表示のことをいいます(遺産分割の実務118頁)。

相続人は家庭裁判所に対して相続放棄の申述をすることで(民938)、初めから相続人とならなかったとみなされることから(民939)、被相続人の積極財産(現金や不動産等)も消極財産(負債等)も全て承継されないことになります。

したがって、被相続人の相続債務の承継を希望しない共同相続人は、家庭裁判所に相続放棄の申述をする必要があります。

(2) 熟慮期間とその起算点

相続放棄には期間制限があり、自己のために相続の開始があったことを知った時から3か月以内に、家庭裁判所に対して相続放棄の申述をしなければなりません(民915・921二)。この期間を「熟慮期間」といいます。

熟慮期間の起算点である「自己のために相続の開始があったことを知った時」とは、原則として「相続人が、相続開始の原因たる事実及びこれにより自己が法律上相続人となった事実を知った場合」、つまり、①被相続人が死亡した事実と②自身が相続人であることの事実の両方を知った場合を意味します。

もっとも、相続人が、3か月以内に相続放棄をしなかったのが、被相続人に相続財産が全く存在しないと信じたためであり、かつ、被相続人の生活歴、被相続人と相続人との間の交際状態その他諸般の状況からみて当該相続人に対し相続財産の有無の調査を期待することが著しく困難な事情があって、相続人においてそのように信ずるについて相当な理由があると認められるときには、例外的に「熟慮期間は相続人が相続財産の全部又は一部の存在を認識した時又は通常これを認識しうべき時」が起算点となります(最判昭59・4・27民集38・6・698。以下「昭和59年判決」といいます。)。

昭和59年判決に関する学説には、①相続財産の一部の認識がある場合には熟慮期間の起算点の例外を認めない限定説と、②かかる認識があっても熟慮期間の起算点が例外的に後れることを認める非限定説があるとされており(潮見佳男編『新注釈民法(19)』500頁〔幡野弘樹〕(有斐閣、2019))、解釈論として検討すべき問題が残されています。

相続放棄の申述が認められた判例・認められなかった判例

(3) 熟慮期間の起算点と相続分のないことの証明書

相続分のないことの証明書が作成された場合も、熟慮期間の起算点に関するルールに変更はありません。

もっとも、上述のように、基本となるルールについても解釈論が分かれている状況ですので、特に、相続分のないことの証明書が相続財産である不動産の所有権移転登記をする際に便宜的に作成された場合については、熟慮期間の起算点について慎重に判断しなくてはなりません。

例えば、相続債権者からの訴状の送達の時を熟慮期間の起算点とした裁判例があります(仙台高決平7・4・26家月48・3・58)。

この裁判例では、被相続人の死亡当時、相続分のないことの証明書を作成した相続人は被相続人名義の不動産が存在していたことを認識していた事実が認められました。

その一方で、共同相続人の間では「被相続人の生前から、被相続人名義の不動産の一切を長男〇〇が取得することで合意していたものであって、被相続人の死亡後も、当然にその合意のとおり長男〇〇に権利が移転するものと考え、自らが取得することとなる相続財産は存在しないものと考えていたことが窺える」との事情を認定の上、「被相続人名義であった不動産が相続の対象となる遺産であるとの認識はなかった」とされました。

そして、相続債権者である金融機関からの訴状の送達により、相続分のないことの証明書を作成した相続人は、相続の対象となる被相続人の債務の存在を初めて認識したと認定され、その時点が熟慮期間の起算点だとされたのです。

これに対し、被相続人が死亡した直後に、被相続人が所有していた不動産の存在を認識した上で他の相続人全員と協議し、これを長男に単独取得させる旨を合意したケースでは、相続分のないことの証明書が作成されたことを理由に、遅くとも、同証明書の作成日頃までには、被相続人に相続すべき遺産があることを具体的に認識していたものとされ、その結果、相続放棄の申述は認められませんでした(東京高決平14・1・16家月55・11・106)。

以上の状況を踏まえると、実務的には、相続分のないことの証明書を作成した相続人が、後日、相続放棄を希望する場合には、個々の事情を踏まえながら、たとえ一部の相続財産に対する認識があったとしても、金融機関からの相続債務の支払請求があった時などを熟慮期間の起算点と考えて、相続放棄の申述を試みる姿勢が必要ではないかと考えます。

なぜなら、相続放棄が認められるか否かに迷っている間に、金融機関からの相続債務の支払請求があった時から3か月が経過してしまえば、たとえ熟慮期間を後らせることができたとしても、相続放棄が認められることはないからです。

(4) あてはめ

本事例の妹は、父が亡くなった当時、被相続人が事業を実施し、当該事業を兄が引き継ぐことを認識していましたので、相続財産の一部の認識があったといえます。昭和59年判決を前提として上述の限定説を採用した場合には、熟慮期間の起算点は、遅くとも相続分のないことの証明書を作成した頃となり、相続放棄の申述は認められそうにありません。

一方で、相続分のないことの証明書を作成した当時、妹が、生前から被相続人の事業を承継するのは兄だと決まっており、遺産分割協議さえも不要であると考えていたような事情がある場合には、金融機関からの請求時が熟慮期間の起算点だと認められる可能性があります。

こうした事情がある場合には、熟慮期間の起算点が後れる可能性に賭けて相続放棄の申述を試みた方がよいでしょう。

〈執筆〉 関一磨(弁護士) 平成29年 弁護士登録(東京弁護士会) 〈編集〉 相川泰男(弁護士) 大畑敦子(弁護士) 横山宗祐(弁護士) 角田智美(弁護士) 山崎岳人(弁護士)

(※写真はイメージです/PIXTA)