ラテン・アメリカの現代詩——政治と小説の狭間で

ホセ・ドノソが、アイオワ大学の作家ゼミで、イスパノ・アメリカの現代小説の講義を提案したところ、責任者から反対されたという。一九六五年のことである。「外国で最も権威あるイスパノ・アメリカの文学形式は詩であり、それに比べて小説家は知られておらず、だれにも興味がない」というのがその理由だった。しかしドノソは、イスパノ・アメリカ文学における変化を主張して譲らず、結局、自分の提案を認めさせるのである。ここで彼のいう〈変化〉とは、次に引用する一節に明らかにされている。

イスパノ・アメリカの詩は、パブロ・ネルーダ、バジェッホ、オクタビオ・パス、ルベン・ダリーオ、ニカノール・パㇽラといった不滅の名で飾られてはいるものの、現在では、詩を受容できる人たちがあまりにも排他的、アカデミックになってしまったために、文学形式としてそれほど活発なものではなくなってしまい、それと同時に、小説が、市民的、教育的束縛から解き放たれ、国際的な読者の関心を呼ぶ無限にして多様な力をもっていることが明らかとなり、たちまち第一線に踊り出て、かつては詩が有していた優先的な地位を占めるに至ったのである。(*)

ボルヘス、ビセンテ・ウイドブロあるいはホセ・レサマ=リマの名を挙げず、世紀末のモデルニスモ(近代主義)の詩人ダリオを入れているあたりにはいささか首をかしげるが、五人のうち二人まで(ネルーダ、パーラ)がチリ出身であることに示されるように、ノーベル賞を受けた女流ミストラルを含め、詩人が圧倒的に優位にあった自国チリの文学環境から生じる、一種の束縛感から解放された喜びのようなものさえ伝わってくる。ドノソはここで、実は二つの〈変化〉について言っている。一つは、形骸化し、もはや時代の精神を表現するのに相応しくなくなったモデルニスモを凌駕する形で登場した、いわゆる「前衛詩」が、かつてのモデルニスモのようにラテン・アメリカのアクチュアルな現実を捉えきれなくなってしまったという、詩の分野における変化、そしてもう一つは、小説の分野における変化である。この二つの変化が合わさったところから生じたのが、ラテン・アメリカ小説の隆盛であり、その国際的認知という現象だった。したがって、ドノソの言葉を信じるならば、作家ゼミの責任者は双方の分野における変化をいずれも把握していなかったということになる。

ところでドノソは、小説の分野の変化を察知したときの感動を、「これがまたぞくぞくするような興奮を感じさせるのだが、イスパノ・アメリカ小説を手にすることは、他のいかなる様式にもまして、なにか生きているものの鼓動を感ずるようなものだった」と表現している。彼の言う興奮は、キューバ革命のもたらした熱気と密接な関係にあるのだが、いずれにせよそれが欧米を経由してやがて日本にも伝わってきたことは周知のとおりだ。七十年代後半、ラテン・アメリカ小説の翻訳、研究に本格的に取り組むようになったとき、十年以上も遅れてではあるが、ぼくもその興奮を味わうことができた。しかし、実を言うとその感情は、初めてのものではなかった。

ラテンアメリカ文学のブーム―一作家の履歴書
ラテンアメリカ文学のブーム―一作家の履歴書』(東海大学出版会)著者:ホセ・ドノソ

日本でも少なくとも七十年代前半までは、ラテン・アメリカ文学に対する認識の程度は一九六五年のアイオワ大学の場合にすら到達していなかった。たとえば新潮社の『世界文学辞典』(一九六八)を見るとそのことがよく分かる。つまり新小説に対する反応はまるで見られず、まさしく詩人に関する項目ばかりが収録されているのだ。そんなこともあって、ぼくは一時期、現代詩に関心を持ち、ことにその出発点となる一九二十年代をもっぱら研究の対象としていた。そして、水野忠夫氏の『マヤコフスキー・ノート』に触発されて、ネルーダを核に同時代の詩人、作家、思想家について個々に調べているうちに、それらの断片が次第に結びつくようになり、やがて熱気をはらんだ巨大な渦を描きはじめたのである。その渦は、六十年代の小説に先立ち、広義の二十年代に詩が「卓越した芸術様式に急激に変化」する様を示してもいた。実際、ボルヘス、バリェホ、ネルーダ、ウイドブロ、オリベリオ・ヒロンド、ニコラス・ギリェン、さらに、後に散文作家となるアストゥリアス、カルペンティエルら、当時を出発点とする詩人、作家たちを比較してみると、西欧志向と土着志向、文学と政治、新しい形式とテーマの模索など、時代の要請する様々な問題に果敢に取り組んでいく彼らの行動の軌跡は驚くほど似ており、歴史の再現を試みているうちにかつての怒れる若者たちの熱狂に感染し、思わず興奮したものだった。その結果、邦訳アンソロジーのあったネルーダやギリェンに与えられた「第三世界の詩人」、「抵抗の詩人」という肩書では表わしきれない様々な側面の存在を知ったのである。もっともそのような肩書が、逆に、彼らラテン・アメリカの詩人を受け入れる側がどのような目で見ていたか、見たかったのか、ということを示してもいる。これは小説の輸入についてもいえることで、アストゥリアスの〈政治小説〉やホルヘ・イカサの〈原住民主義小説〉は、形式よりもその第三世界的テーマ故にいち早く紹介されたのだった。たとえばネルーダの木こりよ目覚めよ』は、ラテン・アメリカの民衆に政治的覚醒を促す、明確なメッセージを持つ作品で、ネルーダの作品の中では最も分かりやすいものだが、これは戦後の早い時期に邦訳が出ている。それに対し、やはり明確なメッセージを持ちながらも、彼の詩的遍歴を総合したマチュピチュの頂」は、おそらくその難解さ故に、代表作でありながら長く紹介されなかった。この作品を後半のメッセージにのみ焦点を当て、「ニクソン殺しの勧め」と同じレベルの政治詩として扱ったのでは、ネルーダの多義性をまるで把握していないことになる。もっとも、エンツェンスベルガーなどがその例だが、ネルーダを政治詩人の枠内に閉じ込める見方は、日本ばかりでなく欧米にも存在する。個人的な経験でいえば、スペインに行って気付いたのは、ネルーダがよく読まれていながら、理解されてはいないということだった。つまり内戦を機に「緊急の詩」として書かれたアルベルティの『街に出た詩人』やミゲルエルナンデスの素朴なメッセージを持つ作品と同じレベルで読む人々が圧倒的に多いのである。もちろんそこには「フランコ時代」を生きざるをえなかった民衆の欲求が投影されている。

きこりよめざめよ―ネルーダ詩集
きこりよめざめよ―ネルーダ詩集』(大月書店)著者:パブロ・ネルーダ
マチュピチュの頂
マチュピチュの頂』(書肆山田)著者:パブロ・ネルーダ

だが、プロの詩人・批評家レベルでも、ネルーダの本質に迫った例をあまり見ない。しかもこのことは、彼を生んだラテン・アメリカについてもいえるのだ。このような圧倒的多数の読者に対し、ネルーダが何度か奉仕を試みたことはよく知られている。彼のそのような行為は、ピカソの「ゲルニカ」や「平和の鳩」を想起させるが、時の経過とともに風化せざるをえないことも確かだ。そのことをよく理解しているオクタビオ・パスは、青年時代に書いた政治詩「奴らを通すな」をアンソロジーからはずしてしまった。ただし、パスは、政治に背を向けるのではなく、やがて評論の分野で扱うようになるのだが、ネルーダの場合にはそれができなかった。ガルシア=マルケスが言ったように、触れるものすべてを黄金に変えるミダス王のごとく、何もかも詩に変えてしまうネルーダには、ありきたりの政治的メッセージでさえ詩の形で語ることしかできなかったのだ。どんなことでもエピソード=フィクションの形でしか語れないガルシア=マルケスには、ネルーダの天才が痛いほどよく分かるにちがいない。こうした才能は、あらゆる言葉が引用になってしまうボルヘスのそれとも共通している。

大いなる歌
『大いなる歌』(現代企画室e託)著者:パブロ・ネルーダ

一九七三年、チリのクーデターのさなかにネルーダが死んだとき、一九二十年代が終ったと思った。もちろん、クロノロジカルではなく、象徴的意味においてである。そして、 大詩人の時代もまた終ったのだという気がした。もっとも、「大詩人」と呼ばれるに相応しい詩人は、ラテン・アメリカ文学史上、彼が最初で最後かもしれない。今年亡くなったボルヘスは、偉大な詩人ではあったが「大詩人」ではなかった(ALL REVIEWS事務局注:本論考執筆時期は1986年)。あるいはパスにしても、その知的刺激に満ちたエッセーの存在のために、将来「大詩人」と呼ばれることはないだろう。一九二十年代、前衛詩の運動、ウルトライスモの詩人としてスペインから帰国したボルヘスは、故国にその原理を紹介するのだが、熱狂の時代が過ぎると、自らは伝統詩のスタイルへと回帰してしまう。確かに彼は、パスが指摘するように、前衛詩人としてはあまりに控え目だった。当時、ブエノスアイレスには「マルティン・フィエロ」誌を主宰する前衛詩人ヒロンドがいたが、スペインバロック詩、シュルレアリスムの技法を取り入れた、アイロニーに満ちたその作品に比べると、ボルヘスの詩のなんと質素なことか。しかし、その詩形でもって、ボルヘスは形而上学的思索を行ない、永遠の相を詩に定着させたのだ。ブエノスアイレスという都市の歴史を、リニアルにではなく同時的なものとして一つの風景の中に描き出した初期の作品に、彼特有の時空に対する感覚がすでに示されていた。現実のブエノスアイレスを一瞬のうちに幻想都市(それがこの都市の真の相なのだが)に変えてしまうその時空感覚は、最後の詩集『陰謀者たち』(八五)の中で、彼に死地となったジュネーヴを「我が祖国の一つ」と呼ばせている。これは「第二の祖国」という月並な表現では表わせないトポスである。そして、もし願いが叶っていれば、もう一つの祖国、日本が彼の終焉の地となるはずだった。

ブエノスアイレスの熱情―ホルヘ・ルイス・ボルヘス初期詩集成1923‐1929
『ブエノスアイレスの熱情―ホルヘ・ルイス・ボルヘス初期詩集成1923‐1929』(水声社)著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス

メキシコのホセ・ゴロスティーサのようなごく少数の例を除き、感傷に流されがちなロマンチックな詩が主流を占める中にあって、ボルヘスほど徹底して形而上詩を追求した詩人はいない。パスはボルヘスの姿勢について次のように言っている。「初期の彼は、同世代の作家のほとんどすべてと同様、文学的前衛とその不敬な示威行動に参加した。その後、好みや見解を変えるものの、姿勢は変えなかった」。しかし、それは受動的な姿勢ではなく、あくまで能動的なものだった。ブエノスアイレスで出会って以来、三十年の年月を経てパリで再会したロジェ・カイヨワと交わした対話の中で、彼は、自分がボルヘスに似ないように心掛けている、と述べ、彼の定点が絶えざる自己否定の結果として保たれていることを明らかにしている。夢や鏡、ナイフといった、我々に馴染深いボルヘス的暗喩も、その使用を避けようと試みたあげくに残ったものであり、単なる反復ではない。彼が伝統へと帰るのは、伝統が現在性を有していたからであり、その意味で彼を、ラディカルな伝統主義者と呼ぶことができるだろう。青年期の情熱を、ボルヘスは純化させながら保ち続けたのだ。

ボルヘス詩集
ボルヘス詩集』(思潮社)著者:ボルヘス

一九二十年代のヨーロッパで生れた前衛運動で、ラテン・アメリカ文学に最も影響を与えたのはシュルレアリスムである。アストゥリアスやカルペンティエルがパリでこの運動に触れ、アメリカ大陸の現実の中に「驚異的なもの」を発見するに至ったことはよく知られている。あるいはペルーのセサル・モーロのように、パリでシュルレアリストのグループに加わった詩人もいるが、実際には、二十年代のラテン・アメリカではシュルレアリスムに対する反応はほとんど見られなかった。たとえばメキシコでは、その時期に小雑誌「同時代人」を中心に一群の優れた詩人が集まり、文学史上まれに見る詩の活況が生れるが、サルバドル・ノボを例外として、ほとんどの同人がこの前衛運動と一線を画している。彼らは海外の文学の動向に関心を示してはいたが、詩についていえば、目ざしていたのは純粋詩であった。パリのシュルレアリスムが本格的に紹介されるのは、オクタビオ・パスがフランスから帰国する五十年代を待たなければならない。また、アルゼンチンではアルド・ペジェグリニによって一九二六年にシュルレアリスムの雑誌「ケ」が創刊されたが、わずか二号で終刊を迎えている。

ラテン・アメリカでシュルレアリスムの影響が最も顕著になるのは、第二次世界大戦から米ソ冷戦の時期である。最後のロマンチックな戦争といわれるスペイン内戦に直接あるいは間接的に参加した詩人たちは、共和国擁護、反ファシズムという共通の目標を前に、「個人」の神話を打ち破る人間的連帯の可能性を垣間見た。バリェホのスペインよ、この盃を我から遠ざけよ』、ネルーダの『第三の住拠』といった詩集は、一九二十年代の世代が個人的苦悩から普遍的苦悩へとその視点を変え現実参加を表明したことを示している。この世代の作家の多くがコミュニスムにコミットしていくのも、そのような連帯感が生んだオプティミズムと無関係ではない。しかし、その一方で、時代は政治の季節に入っていた。パリではブルトンらのグループが、すでに共産党を離脱し、左翼陣営に生じた不協和音は、共和国の敗北とともに次第に表面化しつつあった。たとえば、スペイン難民の支援組織をめぐってのネルーダとバリェホの対立などは、反ファシズム作家会議という場が失なわれたとき、ラテン・アメリカの作家・知識人の連帯というものがいかに脆弱であるかを物語っている。このスペイン内戦をめぐっての連帯と分裂という運動は、後にキューバ革命を背景に再現されることになる。その経緯については、ドノソが前掲書の中で、ユーモアとペーソスをこめて詳細に語っている。さらにいえば、これら二つの世界史的事件の間に、スターリニズムの問題が生じていることも見逃せない。早くも独ソ不可侵条約を機にコミュニストと訣別したパスの場合は別にして、ブラジルのアマードの転向やガルシア=マルケス、バルガス=リョサらの共産党離れはこの時期に起きている。その一方で、ネルーダやアストゥリアスのように、最後まで共産党擁護の立場を取り続けた作家たちがいることは周知の通りだが、この姿勢の相違は、二十年代のコミュニスム運動の創草期を経験し、先駆的指導者としばしば政治闘争をともにしてきたネルーダらの世代と、すでに合法的にであれ非合法にであれ、エスタブリッシュされた組織としての共産党しか知らない世代の相違とも関連しているだろう。もっとも、キューバ革命以前には、ソ連はラテン・アメリカにほとんど関心を示していなかったため、コミュニスム運動にともなう西欧レベルの問題がこの地域に持ち込まれることはなかった。したがって、スターリニズムもごく先鋭な意識を持った作家・知識人の間でしか問題にされなかったのも事実である。

セサル・バジェホ全詩集
『セサル・バジェホ全詩集』(現代企画室)著者:セサル・バジェホ
ネルーダ詩集
『ネルーダ詩集』(思潮社)著者:パブロ・ネルーダ


話が横道に外れてしまったので元に戻そう。第二次大戦、冷戦期のラテン・アメリカでは、世相を反映して、詩から人間存在の暗部を取り除き、詩を退廃した世界における唯一の救済の場としようとする傾向が見られた。詩人たちは、おぞましい社会的事件を受け入れず、個人的ビジョン、内的経験の中に逃げ込むのである。このような姿勢にとって、方法としてのシュルレアリスムはまさにうってつけだった。なぜならそれは、イデオロギーや政治姿勢を問うことなく、詩人に個としての人間の真なるものを啓示してくれるからである。言葉を論理的な繋がりから解放し、内なる真実を探求する方法としてのシュルレアリスムは、詩人たちの創作意欲を大いに刺激した。それにともない様々な前衛運動も活発化する。チリでは、最近再評価されているブラウリオ・アレナスらが雑誌「マンドゥラゴラ」を創刊、またアルゼンチンではシュルレアリスムの再発見が行なわれ、雑誌「ゼロからの出発」がその基盤となった。だが、この時期に現れた雑誌の中で最も重要なのは、キューバの「様々な起点(オリヘネス)」(一九四四-五六)だろう。主宰したのは、難解な長篇『パラディーソ(楽園)』によって、一躍〈ブーム〉の小説家の仲間入りをしたホセ・レサマ=リマであり、エリセオ・ディエゴやシンティオ・ビティエルらがメンバーにいた。

革命前、バティスタの独裁下のキューバから多くの作家が亡命しているが、国に留まったレサマ=リマらはいわば幽閉状態にあった。そのような条件下でレサマ=リマは、シュルレアリストが好んだ神話や新プラトン主義文学の世界に閉じこもり、芸術を自由の領域とみなすことで、不正な社会の制約に対抗するのだ。彼によれば、詩人とは「様々なイメージの作り手」であり、「比喩的主題は、新たなビジョンの変化を生む働きをする」という。シンティオ・ビティエルは彼を評して次のように言う。「ホセ・レサマ=リマの詩は、現実を言葉で作った肉体として表現するのだが、彼の眼差しは、対象を論理的脈絡や感情の流れに沿って解釈したりせず、それを神秘的な外界に置いたまま、未知なるものの味覚に変えようとするのだ」。余談になるが、スペインの映画監督ビクトル・エリセはレサマ=リマの詩に大きな関心を示していた。彼はリアリズム一色のスペイン映画界の中で、ただひとり、詩的手法を使う特異な存在なのだが、バティスタ独裁制に対するフランコ独裁制及び内的亡命という条件が、エリセにレサマ=リマとの類縁性を感じさせるのだろう。ジャンルこそ異なるが、二人の作品がともに難解であると評される点も興味深い。

暗い牧場が私を招く、
その安定したつましい卓布が
私の裡で回り、私のバルコニーでまどろむ。
その圧倒的な広がりが
雪花石膏の円屋根を作る。
……
(「暗い牧場が私を招く」)

Poesia
Poesia』(Catedra Ediciones)著者:Lima, Jose Lezama

レサマ=リマが難解と言われる理由のひとつに、スペインバロック詩の技法を取り入れていることがある。この要素は、「テル・ケル」のグループに加わったキューバ作家セベロ・サルドゥイの小説に明らかに受け継がれている。ところで、この「様々な起点」のグループは、革命後も社会に対する姿勢を大きく変えることはなかった。次のビティエルの詩から、そうした孤独なペシミストの心情を読み取ることができるだろう。

私は歴史をまったく、あるいはほとんど知らないが
私はこれらの頁の作者だ

その最初から、すべて私に起きたことだ

私は主役にして
犠牲者、罪人、死刑執行人

私は傍観者にして活動家。
年齢は私の中で葬られていった。
日々は私の滋養となり、
思想は翼、
匕首となった。

私の手のうつろ
武器の川が流れていった。

私の眼はかまど
すべての創造がその中で燃えた。

私の歌は沈黙。

男、女、子供、老人よ、
私の仕草はどれも、二度と繰り返さぬ時を貫き
星の中で震えるのだ。

私は私。他者を求めるな、
他者を苦しめるな、他者を愛するな。

私に逃げ道はない。
(「告白」)

この作品は一九七十年末に製作されている。実はこの時期、キューバの文化政策をめぐって、様々な物議がかもされ、ラテン・アメリカの作家、知識人の間に、大きな亀裂が生じていた。キューバ革命から生れ、大陸全体を覆うに至ったラテン・アメリカ主義の熱狂を、終息させることになった、俗にいう「パディーリャ事件」が起きたのだ。そのことを考え合せると、ビティエルの詩は、芸術と詩の両方についての「告白」として読めてくる。そういえば、カルペンティエルの最後の作品となった『春の祭典』『ハープと影』は、彼の「告白」でもあった。作風を変え敢えて革命にコミットしようとした前者よりも、後者のコロンブスの言葉の方がより作者の真の言葉に近いと思われるが、ビティエルの詩と比較してみるとき、その多義性がより明確に浮び上がってくるといえる。

Antologia Poetica- Vitier: Seleccion Y Prologo De Enrique Sainz
『Antologia Poetica- Vitier: Seleccion Y Prologo De Enrique Sainz』(Fondo De Cultura Economica USA)著者:Vitier, Cintio

集団的な問題から身を引くとき、しばしば詩人は清澄さを獲得する。「様々な起点」のグループばかりでなく、「反革命的作家」として批判され、結局亡命の道を選んだエベルト・パディーリャの最近の詩集『海辺の男』に収められた作品は、人生の重大な時期を過ぎた詩人のむしろ穏やかな言葉に満ちている。しかし、現在を生きねばならず、過去へのノスタルジーに浸ることも、啓示の詩の非時間を受け入れることもできない詩人にとって、唯一可能な方法はアイロニーである。ニカノル・パーラは、シュルレアリスムの諧謔を取り入れた「反詩」によって、近代社会を風刺してきた。だが最近の作品は、『エルキのキリストの説教と垂訓』に見られるように、彼の思想の根底にある土着的カトリシズムの色合を濃くしているようだ。自伝的要素を盛り込んだその作品は、彼の眼差しが現在から過去へと向いつつあること、そして軍事政権下の祖国に彼を留まらせた、アイデンティティー=根の再確認をしていることを示している。一方、同じチリのエンリケ・リンは、祖国を離れぬ理由を次のように語る。

私はおぞましいチリを捨てたことがない
私の旅は空想の旅ではない
それは確かに遅々としているが――瞬間の積み重ねだ――
遠い自惚れた荒地から
私を根こそぎにしはしなかった
私はリセオ・アレマンで得た言葉を捨てたことがない
その学校の中庭で、軍隊式に与えられた言葉だ
私はその言葉の中で、不可能な亡命という埃を嚙んでいる
他の言葉は私に聖なる恨みを抱かせる
母語とともに現実のすべてを失なう恐怖
私は何も捨てたことがない
(「私はおぞましいチリを捨てたことがない」)


El hombre junto al mar
『El hombre junto al mar』()

ドノソの回想の引用から話を始めたこともあり、一九七十年代の状況を先に語ってしまったが、小説の分野同様詩の分野においても、六十年代はキューバ革命のインパクトによって特徴づけられる。まず、震源地キューバでは、新たなネグリチュードの運動が起きる。キューバ文化のルーツをアフリカに求める試みは一九二十年代以前にすでに見られたが、その試みと連動する形で二十年代に黒人詩が書かれた。ただこの黒人詩は、初期には前衛詩の性格が強かったが、ニコラス・ギリェンはそれを社会詩へと発展させている。このような流れを背景に現れた、アフリカの神話をキューバの状況に重ね合せ、平明で直接的な言葉で語ろうとする試みは、「様々な起点」のグループの難解な詩に対する反動でもあった。

メキシコではセルヒオ・モンドラゴンが、米国のビート世代の女流マーガレット・ランダルと「羽のはえたホルン」誌を創刊し、内外の同世代の詩人の寄稿を募るとともに、自らは新たな社会詩を模索した。またこの詩誌は、ニカラグアの革命的カトリック詩人エルネスト・カルデナルの紹介に努める役割を果している。カルデナルにはアメリカ体験があり、パウンドやギンズバーグの影響が認められるが、六十年代に高揚するいわゆる第三世界主義と政治参加の姿勢が彼の作品を特徴づけている。たとえば、「マリリン・モンローのための祈り」で彼は、ハリウッドの虚栄の中で孤独な死を遂げた女優を悼みつつ、米国文化及び現代文明の批判を行なっている。ハリウッドは、米国の近代都市の非現実性の象徴でもある。

〔……〕
主よ
この罪を放射に汚された世で
すべての商店の売り子同様
映画スターを夢見た売り子だけを罰せられませんように。
彼女の夢は現実に(しかしテクニカラーの現実に)なったのです。
彼女は私達が与えたスクリプト
――私達自身の人生のスクリプトに――従って演じただけであり、
しかもそれは馬鹿げたスクリプトでした。
主よ、彼女を許し給え、そして私達を許し給え
私達の「二十世紀」のために
私達のすべてが働いたこの壮大なスーパープロダクションのために。

Poesía inicial
Poesía inicial』(Universidad Diego Portales)著者:Cardenal, Ernesto

西欧的な革命のセオリーを無視したゲリラ戦によって成功したキューバ革命は、第三世界の革命のモデルとして画期的であり、ゲリラ闘争の有効性を示したかに見えた。しかし、一九六七年にボリビア山中でチェ・ゲバラが戦死すると、ゲリラ闘争への期待は急速に薄れてしまう。それと歩調を合せるように、社会詩から戦闘的な調子が失われ、静謐な調子をもつ、時に自己批判をこめた作品が現れるようになる。このような変化を体現する例として、ジーンフランコはペルーアントニオ・シスネロスを挙げる。自分の世代に捧げる挽歌ともいうべき「追悼」は、彼の姿勢の変化を明らかにした作品である。そして彼は、軍事政権やファシストのような誰の眼にも明らかな敵よりも、さらに狡猾で手強い敵を発見する。それはすべてを包み込む、ブルジョア社会の快適さである。そのぬるま湯のような快適さを象徴するのが、常に霧に包まれた都市リマなのだ。彼はその快適さの記号としてのリマが、人々を囲い込む様を、「あとは霧ばかり/白い、和毛(にこげ)に覆れた王冠が、お前を外の空間から守る」と表現している。あるいは自然を喪失した、エントロピーに満ちた都市を、次のように描く。

海はすぐそこにあるぞ、エルメリンダ、 
だがお前には決してその騒ぎ立つ水、その存在を、確かめることはできまい
ありとあらゆる窓の錆
折れた帆柱
動かぬ車輪
赤レンガの色をした空気の中に、お前はそれを見出すことになるだろう。

現代社会の批判ということでいえば、同じペルーカルロスヘルマン=ベリもまた、黄金世紀の詩を想わせる形式と言葉で、現代社会の恐怖や絶望的状況を鋭く抉っている。たとえば、「おお、妖精シベレスよ!」では、「妖精」によって象徴される、古い概念としての霊感が喚起される。しかし、日々の苦しみから我々を解放してくれるはずのその妖精は、テクノロジー時代の暗喩である「電気仕掛けの胸」を持っているのだ。一方、日常生活の辛酸を、彼は中世の異端審問のイメージで描き、そうすることによって、中世の罪や苦痛とテクノロジー時代のそれとを連続させるのである。シスネロスの場合により明らかに感じられるが、彼らの問題意識、感受性はもはや同時代的な普遍性を備えているといえるだろう。彼らは決して逃避してはいない。メキシコのホセ・エミリオ・パチェーコは知的な詩風から出発し、「言葉だけが癒す働きをもち、詩だけが詩人に楽園を取り戻す」と考えていたが、後に、「詩はもはや逃げ道を提供してはくれず、言葉は歴史の制約を受けている」とその考えを変えている。彼によれば、「現実はふたたびフィクションを破壊する」のだ。

しかし、その一方で、彼らより若い世代に属するコロンビアのファン・グスタボ・コボ・ボルダは、「なぜ現在(いま)詩を書くのだろう/ぼくたちはなぜ完全に黙し/はるかに有益なことに携わらないのか?」と、詩作そのものの意味を疑う。「誰もそんなものを必要としてはいない/そんなものは古びた栄光でしかない/相手にする者などいやしない、それで治せる傷などありはしない」という言葉は、彼ばかりでなく、現在詩を書く者たちへ向けた問いかけとなっている。確かにキューバ革命のインパクトは、詩人たちを言葉との戦いに駆り立てた。しかし、一九二、三十年代に前衛詩が追求し、その後オクタビオ・パスが試みてきた言語実験を越える成果がほとんど見られないのも事実である。敢えていえば、メキシコフランシスコ・セラーノのようにコンピューターに興味を示している若手がいるが、それとても世界的に見れば目新しい存在ではない。ラテン・アメリカ現代詩はどこへ行こうとしているのかという問に対する答はおそらく一つしかない。それは様々な方向へということだ。

【書き手】
野谷 文昭
1948年神奈川県生まれ。ラテンアメリカ文学。東京大学名誉教授。主な訳書にガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』、プイグ『蜘蛛女のキス』、ボルヘス『七つの夜』、共訳書にボラーニョ『2666』、サンチェス・ビダル『ブニュエル、ロルカ、ダリー果てしなき謎』、著書に『マジカルラテンミステリー・ツアー』、編著に『日本の作家が語る ボルヘスとわたし』、『メキシコの美の巨星たち』等がある。

【初出メディア】
ユリイカ 1986年12月
ラテン・アメリカの現代詩——政治と小説の狭間で