1992年野茂英雄メジャーで活躍する前のことだ。高校中退直後の16歳の少年が単身で渡米した。やがて鈴木誠少年は多くの艱難辛苦を経験し、「マック鈴木」となる。

 しかし、マックは野球をするためにアメリカ行きを決意したわけではなかった。息子の将来を心配した父親が「環境を変えてやり直せ」と命じたことで、彼の運命の歯車が大きく回りだすことになった。「NPBを経由していない初めての日本人メジャーリーガー」の野球人生に迫る。

◆街でのケンカがきっかけで滝川第二高を自主退学

 高校野球の名門、滝川第二高1年の冬、街でのケンカがきっかけだった。5歳の頃から空手を始め、中学時代には有段者となっていた。事態は立件寸前まで進み、自主退学を選択。プロ野球選手として将来を嘱望されていた鈴木の運命は、このとき大きく動きだした。

「環境が変われば人間が変わるじゃないですか。それで、父から『アメリカに行ってやり直せ!』と命じられ、中学時代に所属していた神戸須磨クラブの監督のつてで団野村さんを紹介してもらいました」

 当時、団はアメリカのマイナーリーグ1Aチーム「サリナス・スパーズ」のオーナーを務めつつ、ヤクルトの監督であり、父でもある野村克也が作った少年野球チーム「港東ムース」の監督でもあった。団のもとで、選手の世話や球場周辺の雑用をこなす洗濯係として暮らすことになった。1992年春、彼はまだ16歳だった。

「売店でホットドッグやコーラを売ったり、選手たちのユニフォームを洗濯したり、完全な雑用係です。野球をやるつもりはなかったからグラブも日本に置いて渡米しました」

◆アメリカで野球への思いが再燃

 日々の生活は多忙を極めた。英語もしゃべれず、ストレスは溜まっていく一方だったが、月給わずか300ドルでがむしゃらに働き続けた。

「高校を自主退学した時点で野球をするつもりはなかったんですけど、少しずつアメリカの生活に慣れてくると、目の前で行われている試合を見るようになりました。サリナスはすごく弱いチームで、当時は、こんなに下手でも試合に出られるんやな……と感じながら見ていました」

 野球への思いが再燃してくるのが自分でもわかった。そんなころ、メジャー経験のある黒人選手が練習パートナーを買って出てくれた。しばらくは日々の仕事に追われながら、練習を続ける生活が続いた。

「一日の8割が仕事で、残り2割がトレーニング。大変だったけど、初めて夢中になるものを見つけた思いでしたね」

 そして、朗報が届く。

「ぶっちぎりの最下位で迎えたその年の最終戦で、団さんから『鈴木、お前投げてみるか?』と、いきなり言われました。たった1イニングだけの登板だったけど、一度手放した《野球》を、再び自分の手に取り戻すことができたのが自分でもわかりました」

 17歳になった鈴木の胸の内に「もう一度野球がしたい」、「自分の可能性を試してみたい」という思いが芽生える。メジャーリーガーマック鈴木」の誕生が近づきつつあった。

ヤクルトのユマキャンプで芽生えた思い

 1993年には、団の力添えにより、野村克也が監督を務めるヤクルトのユマキャンプに参加することになった。

川崎憲次郎さん、伊藤智仁さん、そして石井一久さん、彼らのボールはすごかった。このとき、プロってすごいな、自分ももっと練習しなければ、という思いになりました」

 このとき、池山隆寛広沢克己(のち廣澤克実)ら、当時の主力打者を相手に紅白戦で登板するという話が持ち上がったが、「野球協約に抵触する恐れ」があり、「もしも抑えられたらプロの面目が立たない」との理由で実現しなかった。

「仮に打たれたとしても、抑えたとしても、絶対に後にいい思い出話として盛り上がったでしょうね。あのときは肩も壊れていなかったから、投げていればどんな結果になったのか楽しみでしたけどね」

メジャーキャンプ初日の悲劇

 1993年9月、彼はシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだ。トロント・ブルージェイズアトランタ・ブレーブスからもオファーがあった。マックの底知れぬ能力はメジャースカウト陣にとっても大きな魅力となっていた。

 しかし、満を持して挑んだ1994年スプリングキャンプ初日、「事件」が起こった。

 日本のプロ野球を経験しない初めてのメジャーリーガーとなる可能性を秘めた18歳の若者。その動向に密着するために、日本から100人以上のマスコミが大挙していた。満足な自主トレが行えず、コンディションに不安の残るなかマックブルペンに入った。

「いきなり、当時のマリナーズのエース、ランディ・ジョンソンと一緒のA班でブルペン入りしました。最初は、軽く投げればいいか、と考えていたのに、つい思い切り投げたら、肩を壊してしまって……」

 周囲の注目が集まる中で、18歳の少年は右肩に起きた異変を誰にも打ち明けることができなかった。だましだまし投げていたものの、5月にはまったく投球できなくなり、その年のオフに内視鏡手術を受けることになってしまった。

「今から思えば誤ったトレーニングで可動域が狭くなり、頭でイメージすることと、実際の動きとのズレが生まれたまま投げたのが原因でした。この日以来、引退するまでずっと右肩が万全の状態に戻ることはありませんでした」

マイケル・ジョーダンとの邂逅

 このころマックは、NBAの生きる伝説であり、神様でもあり、当時は2AでMLB挑戦中のマイケル・ジョーダンとの邂逅を果たしている。

 ある日の試合において、乱闘騒動が起きた。相手ベンチにいたジョーダンがマウンド上のピッチャー目がけて、真っ先に飛び出してきた。

「もちろん僕も、味方ピッチャーを助けるためにベンチから飛び出しました。すると、ジョーダンがマウンドで勝手にコケてしまったんです(笑)」

 初めは何が起きたのかわからなかったが、そのシーンをたまたま撮影していたテレビクルーの映像によって事態の詳細が明らかになった。

「転んだところにちょうど僕のヒザがあって、ジョーダンはアゴを痛打していました。僕としては蹴ろうとしたわけでもないし、何が何だかよくわからない状態。乱闘後、何かヒザが痛いな、って思っていたぐらいですから(笑)」

◆アメリカに渡って4年11か月、ついにメジャーのマウンドに

 1995年、全米ではメジャー1年目の野茂英雄による「NOMOフィーバー」が沸き起こっていた。忸怩たる思いで臨んだ内視鏡手術、そしてリハビリプログラムは1年に及び、ついにシーズン終盤に1Aで復帰を果たす。肩の痛みは軽減され、球速は取り戻しつつあったものの、どうもしっくりこない。

 今の自分は本当の自分じゃない。本当の自分はもっとすごいボールを投げていたのに。そんな思いが彼の胸の内を支配していく。それでも。

1996年は2Aでシーズンを迎えました。本来の調子には戻っていなかったけど、先発で起用されてシーズン序盤で3勝を挙げました」

 7月に入ると、当人もまったく予期せぬ朗報が届いた。3Aを飛ばして、いきなりメジャー昇格を命じられたのだ。7月7日テキサス・レンジャーズ戦、21歳の夏だった。

「2Aからいきなりメジャーでしたから、自分でも驚きました。でも、このときのことは何も覚えていません。やっぱり緊張していたんでしょうね」

 アメリカに渡って4年11か月、ついにメジャーのマウンドに上がったのだ──。

マック鈴木
1975年兵庫県生まれ。1992年に渡米、1Aサリナスで球団職員。1993年9月、マリナーズと契約。1996年メジャー初登板。1999年ロイヤルズ’01年ロッキーズブルワーズロイヤルズ’02年オリックスドラフトで入団

撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社

長谷川晶一】
1970年東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

―[サムライの言球]―


マック鈴木氏